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2018年10月24日 (水)

20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その4)……角屋麦酒、神都線線路跡(?)、野口みずき金メダルロード顕彰碑、沢村栄治・西村幸生胸像を見て、松尾観音寺へ

 1週間以上開いてしまいましたが、10月8日の近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」のその4です。その3では(10月15日:20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その3)……伊勢河崎商人館、川の駅・河崎、橘神社を経ていよいよ二軒茶屋餅)、ようやく二軒茶屋餅にありつけました。

20181008kintetsuhikingujiyamada2 記憶を取り戻すためにも、復習(苦笑)。左のマップで、中央にある「二軒茶Img_6170c 屋餅角屋本店」まで来て、二軒茶屋餅(右の写真)をいただいたという次第。ここの地名は、「神久」。なんだか神々しい感じもしますが、ひょっとしたら南にある「神田久志本町」を縮めたのかという気もします。
Img_6200c 二軒茶屋餅を商っている角屋本店さんから国道42号線を挟んで、こういう建物があります。伊勢角屋麦酒直営の「レストラン麦酒蔵」です。残念ながら営業はしていないようですが、角屋さんは、「伊勢角屋麦酒」などを製造販売しておられます。
Img_6205c さらに、「レストラン麦酒蔵」の南には、天然醸造で味噌溜りをつくっているImg_6207c 蔵がありました。築100余年になる味噌溜り蔵で四季の気温を利用した昔ながら作り方で味噌溜まりがつくられているそうです(こちら)。
Img_6213c ここから伊勢警察署のあたりまで南へ向かいます。スタートからは5㎞、11時40分頃。歩いてImg_6215c いる道や、合流してくる道の様子を見ると、以前は、線路が敷かれていたのではないかと思える雰囲気。左は、角屋さんの味噌蔵の先から南を見たもの、右は、さらにその先から北を振り返ってみたもの。
Img_6217c この先で、JR参宮線の高架をくぐります。コースマップには、「この下の道Miekoutsusintosen2 路は電車の軌跡でした」としか説明がありません。その2にも載せましたが、「日本鉄道旅行地図帳 関西1(新潮社、2008年)にある「三重交通神都線」の路線図をよくみると、やはりこのあたりに路面電車が走っていたようです(右の画像、赤丸をつけたあたり)。今は、路面電車が走っていたことを示す跡はないようです。
Img_6221c 上右の参宮線の高架橋を見ても、向かって右は電車道だったかと思える感じ。左の写真は、高架橋をくぐった先。ここも右側がを電車が通っていたのかなという気がします。写真で見えている建物は、伊勢警察署。その向こうが、県道22号線。
Img_6230c 県道22号線の神田久志本町交差点の北に三重交通伊勢営業所があります。コースマップによれば、ここに三重交通神都線の中山変電所があったといいます。「日本鉄道旅行地図帳」には、「中山(信)」とあるところでしょう。
20181008kintetsuhikingujiyamada3 実測ルートマップも次に移ります。神田久志本町で左折し、すぐの倉田Img_6239c 山公園入口交差点から右へ入ります。伊勢まなび高校は、昔は伊勢実業高校。次の目的地である松尾観音の案内板も見えてきました。
Img_6240c ところが、この先、「倉田山公園」の名前の通り、上り坂。距離測の標高Img_6250c によれば、最終的にはほぼ0mから30mまで登る羽目になるのです(涙)。公園には、野球場があります。ダイムスタジアム伊勢(倉田山公園野球場)。余談ですが、ネーミングライツというのは、どうも好きになれません。「倉田山公園野球場」でいいじゃないかと思うのです。この野球場、三重県や、東海地区の高校野球の予選、公式試合が行われます。
Img_6244c 野球場の手前で6㎞。この日はけっこう暑くて、汗も掻いていて疲れていたのですが、野球場の方にモニュメントやら、胸像やらがみえましたので、これは寄り道しなくっちゃ(微笑)。
Img_6245c まずは、こちら。「野口みずき金メダルロード」の顕彰碑。野口みずき選手Img_6247c は、伊勢市出身。2004年のアテネオリンピックの女子マラソンで優勝しました。その功績を顕彰し記念するため、三重県立宇治山田商業高等学校時代に実際にトレーニングで走ったコースを顕彰記念道路として設置し、その愛称を「野口みずき金メダルロード」と名付けたのです。顕彰碑は、平成17(2005)年10月に建てられています。
Img_6252c もう一つは、こちらの胸像。伊勢が生んだ2人の名投手、沢村栄治投手Img_6254c と、西村幸生投手。この胸像は元々別のところにあったのですが、平成26(2014)年3月、隣り合わせに移設されました。この記念と、球場のリニューアルオープンを記念して、創立80周年を迎えた読売巨人軍と、翌年80周年を迎えた阪神の2球団による「伝統の巨人阪神戦80周年企画」の一環として行われました。
Img_6256c 向かって左には、沢村栄治投手(大正6(1917)~昭和19(1944)年)の胸Img_6260c 像。旧京都商業(現在の京都学園高等学校)に進み、甲子園にも出場しています。17歳の時に出場した日米野球ではベーブ・ルースらがいた大リーグ選抜を1点に抑えました。巨人では3度のノーヒットノーラン試合を達成しています。昭和19(1944)年、3度目の出征の際、輸送船が台湾沖で攻撃され、27歳で戦死しました。背番号144は巨人初の永久欠番。今も、「沢村賞」にその名を残しています。
Img_5840c 近鉄宇治山田駅前の商店街に「沢村栄治生誕の街 明倫商店街」という看板がありました。生家跡は、駐車場になっており、そこの一角には「澤村榮治生家跡」の記念碑があるそうです(こちら)。沢村投手は、ここ伊勢市(旧宇治山田市)岩渕町出身です。
Img_6262c こちらは、西村幸生(明治43(1910)~昭和20(1945)年)投手。現在の伊勢市大世古町出身。学生野球Img_6267c (関西大学)で活躍した後、昭和12(1937)年、大阪(現阪神)タイガースに投手として入団。同年秋、翌年春の優勝に貢献しています。昭和14(1939)年に退団、昭和20(1945)年4、フィリピンで戦死しました。沢村投手との対戦を望んで阪神タイガースに入団したといいます。
Img_6270c 思わず、良いものを見つけ満足しつつ松尾観音寺へ向かっていたら、足Img_6272c 下にこんな表示があって、思わずニヤリ。外野のフェンスの外の道路にありました。
Img_6274c 野球場から本のルートに戻り、坂をほとんど登り切ったとImg_6283c ころに龍池山松尾観音寺への入り口が見えてきました。たぶんこれで高低差30mを乗り切ったはず。6㎞半、12時ちょうどに到着。
Img_6277c 境内への階段を上がる手前に、このような古びた石碑がありました。ちょっと気味が悪い感じもしましたが、よく見ると、「廃校碑」と刻んであります。もっと近づいてよく見たかったものの、廃屋のようなお宅の敷地内にあり、道路からこの写真を撮るのが精一杯。ネット検索でもこれまでのところ、不明。
Img_6286c こちらが松尾観音寺の本堂。奈良時代始め(712年)、行基が伊勢神宮Img_6325c 参拝の折、この松尾山に雄・雌の龍が住むと伝えられる池があることを知り、その池のほとりに自ら観音様を刻み寺を創建したと伝えられています。その後は、伊勢国の国司であった北畠(きたばたけ)氏が祈願寺として守護し、その後、北畠家一統の木造(こつくり)氏が氏寺として守護してきました。創建以来、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない“単立”という特異な形態の祈願寺です。ご本尊は、「十一面観世音菩薩」と、脇仕の「地蔵菩薩」「毘沙門天」。この本堂は、約200年前の文政3(1820)年、総欅(そうけやき)造りで建てられています。
Img_6290c 本堂裏には、二つ池(龍池)と呼ばれる2つの池があり、昔から東の池にImg_6301c は雄龍、西の池には雌龍がそれぞれ住んでおり、観音様をお守りになっているといわれています。この記事2つめの実測ルートマップで、代務スタジアム伊勢の北東にある2つの池と思われます。今から約600年前の応永10(1403)年5月、本堂が火災に遭った際、池から2体の龍神が姿を現わし、雄龍は燃え盛る炎を飲み込みながら舞い降り、観音様を自らの体で幾重にも巻き付け、また、雌龍は何度も池の水を炎に吹きかけ、観音様を火災から守ったという伝説が残っています。右の写真は、本殿北東にある社。手前は、松尾龍池社。
Img_6304c 奥にあるお社には、宇須大明神が祀られています。この神様は、龍神を祀る鎮守のようです(こちら)。
Img_6305c こちらは、昭和57(1982)年に、お社に向かう鳥居の脇につくられた植え込み。龍神伝説にちなみ、紅白のキリシマツツジ300本が龍の形に植えられています。毎年、春に先行して咲く赤い花を追うように白い花が咲くのだそうです。
Img_6329c 松尾観音寺の境内にはいろいろなものがあったのですが、木々で近づImg_6336c けないものもありましたから、それなりに確認できたものを載せておきます。境内への階段を上がった左手には、庚申堂と、「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑。碑陰には、「天保九年秋七月」とありました。祐天上人(寛永14(1637)~享保3(1718)年)筆による「六字名号碑」であろうと思います(こちら)。祐天上人は、江戸中期の浄土宗の僧。江戸増上寺三十六代。
Img_6341c 筆塚。碑陰には、「平成十六年八月吉日」「東立社 川合○○ 八十七歳」とありましたが(藪になっていて裏正面にはうまく回り込めません)、不明。
Img_6348c よく分からず、「三重の句碑一覧」で検索したら出て来ました(たまたまラッキーだったような気がします)。大主耕雨句碑。まったく読めなかったのですが、「夕暮を 譲りあひけり 花と水」と刻まれているようです。建立は、大正5年5月。碑陰には何もありません。また、建立者も不明。大主耕雨(おおぬしこうう;天保6(1835)~大正4(1915)年)は、幕末~明治時代の神職,俳人。伊勢の人。伊勢神宮主典。京都の堤梅通(ばいつう)らに学び、文久2(1862)年、二条家の俳諧の席にくわえられました。
Img_6347c_2 左右の写真の石碑には、藪が深くて近づけませんでした。攻めて写真をImg_6351c 撮ろうと思った次第。こちらの「伊勢西国三十三所」のサイトによれば(松尾観音寺は、第3番札所)、大主耕雨の句碑の他、酒高・阿竹其白の句碑、金森得水の歌碑などがあるとされています。酒高・阿竹其白はネット検索では不明。金森得水(かなもりとくすい;天明6(1786)~元治元(1865)年)は、江戸時代後期の茶人。紀伊和歌山藩領の伊勢・田丸城主久野家の家臣。右の写真の石碑は、刻まれている文字の数から見て、歌碑の可能性が高いようです。玉城町には、金森得水 別邸(茶室)「玄甲舎」が現存しています(こちら)。
Img_6288c 境内にはこれらの他、さまざまな供養塔などがありましたが、かなり古く、Img_6292c どのようなものかよく分からないものがほとんどでした。松尾観音寺は、悩みや苦しみを取り除いて願いを叶えて下さるという観音さまと、龍神さまをお祀りするお寺で、古来から諸願成就(様々な願い事が叶う)のお参りの方が多く訪れたということですから、そういう歴史を物語るものと思います。
 なお、昭和29(1954)年に大改修を行った際、本堂屋根の露盤(ろばん)から般若心経の写経1万巻が納められているのが発見されたそうです。この写経は、肉筆で一枚一枚丁寧に書かれたもので、500巻ずつ箱に収められ、虫除けに煙草の葉を入れ、油紙で包まれて奉納されていたといいます。また、小生は残念ながらよく見てこなかったのですが、本堂内には、近世末から近代にかけての額・絵馬が数多く奉納されています。
 松尾観音寺でお昼を食べようとも思ったのですが、良い場所がありませんでしたので、次の倭姫宮へ向かうことにしました。お寺ではお茶の接待をいただきました。その5でゴールインの予定。

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