« 20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その3)……大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑、春日神社 | トップページ | 今日は何日?……宅配便配達指定日の謎(笑)ほか »

2018年10月 6日 (土)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その4)……徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡神社、久住屋菓舗でおはらぎ、青龍寺そして勝速日神社を経て白子駅へゴール(完)

 9月24日に開催された近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」のその4です。その3では、大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑を経て、ようやく春日神社へ。5.7㎞地点、時刻は、12時半頃。

20180924kintetsuisewakamatsu3 今日の記事で出てくるところのルートマップ。伊勢湾から少し離れた住宅街Img_3883c の中を進みます。ハイキングで設定された立ち寄りスポットは、徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡社などですが、2㎞ほどは立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩きました(笑)。鈴鹿市立愛宕小学校を過ぎると、7㎞。
Img_3930c 7.1㎞地点、東江島町に入ってしばらくしたところで左折。奥に見える森は、Img_3931c 江島若宮八幡神社の鎮守の森。これは地図をよく見ていないと見逃しそうなところ。「近鉄ハイキング」のコースを示す、朱い矢印が2つ、電柱に貼ってあります。これを行くと、「ここが本当にハイキングコース?」と思えるようなところを通って行きます。伊勢マリンホームという特別養護老人ホームの脇を通って海岸に出ます。
Img_3934c このあたりが、「徳川家康公船出の浦」です。案内板は、このすぐ近くの江Img_3937c 島公園の中に建てられています。案内板には「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港(浦)」とあります。天正10(1582)年6月2日(旧暦)、本能寺の変が発生しましたが、その際、徳川家康は本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還しました。
Img_3940c この案内板によれば、伊賀越えをして、亀山を抜け、家康はここ江島北部(当時は、川南村)にたどりつきました。小川孫三の農事納屋に身を隠したのち、6月4日に白子若松浦から孫三の漕ぐ船で脱出したというのです。ちなみに、このあと家康は、小生の生まれ故郷である三河国大浜に上陸しています。ただし、家康が伊勢国から船に乗ったのは確かなようですが、乗船したところについては、いくつかの説があります。ここ白子という説の他にも、津、浜村(四日市市)という話もあります。四日市には、浜町および蔵町に思案橋(しあんばし)という史跡があります。今は、川は流れていませんが、国道164号を挟んで両側の歩道に復元された橋が設置されています。本能寺の変を避けた家康が、ここより海路を進むか、陸路を進むか、を思案したとされます(ここは、去年11月25日にJRさわやかウォーキングで行っています:どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)。
Img_3946c  どこから船に乗ったかにもよるのでしょうが、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けたのは、伊勢商人の角屋七郎次郎秀持ともいいます(こちらWikipediaの説明)。また、案内板には駿府に帰ったような記述がありますが、小生の生まれ故郷である三河国大浜(現在の碧南市浜寺町あたり)に上陸したというのが通説です。ただし、白子から海路最短コースを通っても、三河大浜までは、海上16里(約64㎞)ありますので、上陸地点は知多半島常滑とする説もあります(常滑であれば、海路直線距離で6里弱、約22.5㎞)。写真は、江島公園の前から伊勢湾、北東を見たもの。もっと天気がよければ、知多半島が見えるはず。
Img_3942c 江島公園の中を抜けて行きます。この公園は、千代崎海岸につながる海Img_3949c 岸に面しています。夕雲整備されていて、家族連れなどで楽しめそうです。
Img_3955c 江島公園のすぐ西に江島若宮八幡神社があります。ここは、ここは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で来ました(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編)、3月22日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その4)……芙蓉館から江島若宮八幡神社へ(まだ続きます))。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。
Img_3958c_2 主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を人皇六十代延喜帝醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷したといいます。相殿神は、建速須佐之男命を含め14柱。今回は割愛しますので、ご興味がおありでしたら、3月1日の近鉄ハイキングの記事をご覧ください。
Img_3961c  江島若宮八幡神社は、伊勢湾にほど近いところにあり、江戸時代から海上の守護神として信仰を集めて来ました。安全祈願などで奉納された多数の絵馬がありますが、そのうち、江戸時代の71面は三重県の有形民俗文化財に指定されています。今日は、予約制の宝物館の扉が開けていただいてあり、絵馬を直接見られました。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄があります。廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰が窺えます。神社の南にある常夜灯もまた見てきましたが、それも含め、その他、江島若宮八幡神社についての詳細は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」をご覧ください。
Img_4019c 江島若宮八幡神社の近くからは、しばらく伊勢街道を下ります。このあたImg_4026c りは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で、上ってきたところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。伊勢街道(参宮街道)沿いには、「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」、「江島陣屋跡」などがあります(3月21日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ)。
Img_4039c  今日のコースには買えるところはないと諦めていたのですが、ありましImg_4144c た。コースマップをよく見なくてはなりませんでした。鈴鹿の銘菓・大はら木(おはらぎ)。久住屋菓舗さんのお店の前のところで曲がるというルートでした(微笑)。久住屋菓舗さんは、創業は文久年間という老舗。3月の時は、小原木本舗大徳屋長久さんで購入しました。鈴鹿で働いていましたので、懐かしいお菓子。手焼きした柔らかいおせんべいに粒あんが挟んであります。久住屋菓舗さんでは、1個¥85。
Img_3848c ちなみに、久住屋菓舗さんの看板が、若松堤防漂流記壁画から2代目開国曙光碑へ行く途中にありました。昔よくあったタイプの看板で、懐かしい感じがします。
20180924kintetsuisewakamatsu4 最後の実測ルートマップです。久住屋菓舗さんのところで伊勢街道から離れ、右折し、白子の町の方へと向かいます。
Img_4042c 次に立ち寄るのは勝速日神社ですが、そこへ向かう途中お寺がありましたので、寄り道(微笑)。體用山(たいゆうざん)青龍寺です。真宗高田派のお寺。3月のハイキングで下調べはしていたものの、足を伸ばさなかったところです。あまり有名ではないようですが、お宝は充実しています。
Img_4053c 天長7(830)年、弘法大師空海によって開創されたと伝承されています。弘法大師の作になるという弁財天が祀られており、光背に漢文で次のように銘があるといいます。「天長七年七月七日江島ニオイテ辨財天ノ法秘密護摩一萬座修行シ奉ル其ノ墨ヲ以テコノ像作ル者也 空海 印」。その後、寛正元(1460)年鈴鹿に根拠を置いて布教に努めた真慧上人(しんねしょうにん)に帰依し、真宗高田派に改宗しました。真慧上人は、室町後期の浄土真宗の僧。伊勢一身田に無量寿院(専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大しています。伊勢専修寺第十代。
Img_4047 今日のコースではありませんので、お宝は拝見できませんでしたが、ご覧のようにたくさんのものがあるそうです。主なものの一つ目は、徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」です。白子が紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったと思われます。二つ目は、「弘法大師の手形」です。弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。
Img_4049c 三つ目は、第11次朝鮮通信使(延享3(1746)年)の通訳官、朴徳源の肉筆による「體用山(たいゆうざん)」の額です。平成15(2003)年に、本物であることが確認されています。朝鮮通信使が書いた扁額は、全国的にも少ないので、貴重な文化財です。ただ、鈴鹿は朝鮮通信使のルートからは外れているのに、何故ここにこれがあるのかは不明。
Img_4061c 本堂に向かって左手には、「倶會一處(くえいっしょ)」の石碑と、もう一Img_4065c つ。「倶會一處」とは、人々が一定の場所に集ること。原義は仏教で阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、すでに往生している人々と会うことをいうそうです。
Img_4063c もう一つの石碑には、「三疑翁退筆冢之記」と刻まれています。4枚前の「體用山青龍寺の文化財」の説明板の7に「久住三疑の筆塚」とありますが、それがこれです。久住三疑(宝暦8(1758)~天保元(1830)年)は、白子の廻船業者で、好景気に支えられ、当時、白子湊の大富豪であったといいます。能筆家としても知られています(久住五左衛門三疑。三疑は号の一つ)(こちらでも言及されています)。退筆は、古い筆。石碑は、天保五(1834)年申午四月に建てられています。内容、読み下しはこちらを参照。青龍寺で8㎞。
Img_4093c 神社の由緒書きによれば、文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建。主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父)。相殿神は、天御蔭命、素盞嗚命、稲田姫命、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、天美津玉照比売命。詳細は、上記の3月のハイキングのリンク先をご覧ください。
Img_4092c 鈴鹿でF1グランプリが始まりましたが、レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるそうです(たとえば、こちら)。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、稲穂の神、農業神として信仰されることがおおいようですが、「正勝吾勝(マサカツアカツ)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「勝速日(カチハヤヒ)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられています」(Wikipediaから)。これですべてコンプリート。
Img_4103c ゴールの近鉄名古屋線・白子駅には13時42分に到着。9.5㎞を完歩しまImg_4116c した。コースマップでは8㎞でしたが、寄り道もしましたし、よく歩いたという感じでした。13時51分発名古屋行き急行に乗車して帰宅。桑名駅は、14時22分。¥490。
Img_4138c あみま倶楽部スタンプは、これで19個。あと1つで20個となります。シルバー会員になっていますので、スタンプ20個で銅賞がもらえます。バッチと1,000円分の賞品(こちら)。1,000円分は、近鉄グループの商品券か、景品がもらえます。今日(10/6)、塩浜のハイキング(いにしえの六呂見町並み散策と勅願院観音寺)に行っていれば、20個になったのですが、朝から小雨が続いて、断念しました。
 なお、このハイキング、「距離測」に描いた実測ルートは、こちらでご覧いただけます。

|

« 20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その3)……大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑、春日神社 | トップページ | 今日は何日?……宅配便配達指定日の謎(笑)ほか »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

散歩」カテゴリの記事

神社」カテゴリの記事

寺院」カテゴリの記事

歴史散歩」カテゴリの記事

近鉄ハイキング」カテゴリの記事

コメント

こころんさん、こんばんは。

お陰様で伊勢若松のハイキングで19個目、今日、宇治山田で20個目のスタンプをゲットしました。
次は40個ですから、12月までに達成はちょっと難しい気がしています(毎回参加すれば達成できるかも知れませんが、それはちょっと無理)。

光太夫の記念館は、「山椒は小粒でぴりりと辛い」という感じですね。
小さいながらも展示は充実している感じでした。

光太夫という人は、かなり賢く、腹も座った人物ではないかという気がします。
10年もかけて戻って来たというのは、並大抵のことではありません。

小川神社は平成28年に建て替えています。
江島若宮八幡神社もコンクリート造りでした。
こちらはいつ建て替えたのか、分かりません。
新しい神社には、コンクリート造りも増えていますね。
理由は、よく分かりませんが、木造のしっかりしたものの方がありがたい気がします。

「倶會一處」の意味は、調べてみました(微笑)。
仏教用語だというのは当然見当が付いていましたが……。
分からないこと、詳しいことは何でも調べます。

投稿: mamekichi | 2018年10月 8日 (月) 21時46分

19個目のスタンプGETおめでとうございます。

光太夫記念館は行ったことありますが
そんなに大きな部屋ではない所に
服や舟の模型がありましたね。
よく言葉が通じて帰って来れたなあと思います。

鈴鹿の神社は椿大神社と都波岐神社しか行ったことありませんが
都波岐神社もそうだったのですが
お写真を拝見すると
小川神社や若宮神社はコンクリート造りのような感じがします。
この辺りの特徴でしょうか?
海が近いから?台風対策?でしょうか?

倶會一處はそういう意味があるんですね。
墓参りに行くと墓石に「南無阿弥陀仏」や「先祖代々之墓」と
彫られてるのがほとんどなのですが
「倶會一處」と彫られたのを見たことあります。

あと1つ。
今日、達成されてるかもしれませんね(^^)

投稿: こころん | 2018年10月 8日 (月) 17時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その3)……大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑、春日神社 | トップページ | 今日は何日?……宅配便配達指定日の謎(笑)ほか »