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2018年10月 1日 (月)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その1)……伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、若松小学校の光太夫像と道標

 9月24日(月・振替休日)に行ってきた、近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」の本編、その1です。

Img_3541c 大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(宝暦1(1751)年~文政11(1828)年)Koudayu は、江戸時代、ロシアに漂流した船頭です。大黒屋は、白子の廻船問屋。光太夫はそこの船頭。安永9(1780)年に沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改めました。天明2 (1782) 年 12月、伊勢の白子から江戸への航行中、駿河灘で台風にあい、7ヵ月余漂流を続けて翌年夏、アリューシャン列島のアムチトカ島に着き、4年後、カムチャツカ半島に渡ります。のち帰国を願ってシベリアを西行し、1791年、首都ペテルブルグにいたり、女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見。寛政4 (1792) 年、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し、将軍家斉に謁見しています。出帆時には17名だったのが3 名になっていました(光太夫の他は、磯吉、小市)。吉村昭の小説「大黒屋光太夫」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」のモデルです。右の画像、やや不鮮明ですが、光太夫が出航してから、漂流し、ロシアに渡って戻るまでの旅程図(大黒屋光太夫記念館だより24号より)。冒頭の写真は、近鉄・伊勢若松駅前にある大黒屋光太夫の銅像。昭和62(1987)年、若松小学校創立100周年記念として、小学校校庭に建立されたものが、「大黒屋光太夫記念館」完成を機に、光太夫のふるさとの玄関口となる伊勢若松駅前に移設され
ました。
Img_3548c 台座の側面には、和歌が刻まれています。これは、鈴鹿市が生んだ歌人Img_3546c で、第1回分か勲章受章者である佐佐木信綱が、昭和3(1928)年に若松を訪ねたとき、光太夫に思いをはせ、詠んだもの。次のように詠まれています:
海ほからに まつ原青し この浦ゆ 船出せし人の くしき一生 若まつにて 信綱
Img_3552c スタートは、近鉄名古屋線・伊勢若松駅。受付は、9時45分からでしたので、桑名を9時22分の松阪行き急行に乗車。9時45分に到着。¥440。伊勢若松駅は、江戸橋に仕事に行くときに通るのですが、降りたのは初めて(ここから分岐する鈴鹿線には何度か乗車しました)。
Img_3533c  この日のコースマップ。両面になっています。いただいたもののナンバーImg_3530c_2 は、416。伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、心海寺、宝祥寺、光太夫らの供養碑、若松緑地堤防(漂流記壁画)と、ここまでは光太夫ゆかりのところを訪ねます。その後、江島若宮八幡神社、勝速日神社とこのあたりの有名な神社に立ち寄って(この2社は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で訪ねています)(2018年3月17日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約8㎞となっています。スタートしたのは10時。
20180924kintetsuisewakamatsu0_2  こちらが実際に歩いたルート。「よく歩いたな」と思ったのですが、9.5㎞でした。道草、寄り道は少しだけ(微笑)。開国曙光碑は、台風などで壊れたりして、現在のものは3代目。そのため①~③まであります。ここにキョリ測に描いたルートがあります。ちなみに今日のルートはほぼ平坦。最高地点は、6m(最低は、0m)。
20180924kintetsuisewakamatsu1 拡大したルートマップ。伊勢若松駅を10時にスタートし、まずは、緑芳寺Img_3560c に向かいます(山号を確認してくるのを忘れました)。駅のすぐ西、300mほど。真宗大谷派のお寺。光太夫の菩提寺(生家といわれる亀屋の菩提寺)です。しかし、光太夫のお墓はここにはなく、江戸本郷元町の興安寺にあります。
Img_3564c こちらが本堂。この日、大黒屋光太夫顕彰会(大黒屋光太夫ネットワーImg_3566c ク)の方々が、立ち寄り先で案内や説明をしてくださいました。
Img_3571c 今日は、特別にお宝を見せていただけました。左は、エカテリーナ2世かImg_3573c ら下賜された銀貨。エカテリーナ2世の像が刻まれています。寛政7(1795)年8月に光太夫が寄進したもの。ご住職は、磨くと価値が下がるかも知れないと心配され、磨いていないとおっしゃっていました。右は、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)。当然、小生には読めません。これも光太夫ゆかりの品。
Img_3575c 光太夫からは離れますが、緑芳寺には、松尾芭蕉句碑があります。「雁ゆくかたやしろ子若松」と刻まれているそうですが、ほとんど読めない状態。というのも、当時の住職であった櫟玄籍によって嘉永年間(1848~54)に建てられたという説があるそうです。これは、元禄3(1690)年、越人の『ひさご』の中の花見の部にでています(こちら)。菅沼曲水、珍碩(浜田洒堂(はまだしゃどう)ともいいます。高田本山専修寺にも句碑がありました)らと詠んだうちの付句。付句を刻した碑としては全国的に非常に珍しいといいます(三重の句碑)。
Img_3587c_2 緑芳寺の角(東側)に、道標があるのに気づきました。「左 箕田 長太 Img_3585c 四日市道」、「右 白子道」と刻まれていました。これについては、ネットで検索したのですが、今のところ情報を見つけられないでいます。
Img_3586c 「右 白子道」と刻まれている方。植え込みに隠れていてハッキリとは確認できません。
Img_3595c 緑芳寺から次の立ち寄りポイントである開国曙光碑までは、水田地帯を歩きます。近鉄鈴鹿線を越え、名古屋線沿いに1.6㎞ほど。写真の電車は、近鉄鈴鹿線。平田町から伊勢若松を結んでいます。
Img_3621c 開国曙光碑は、若松地区市民センターの敷地にあります。これは3代Img_3623c 目。この碑は光太夫の功績を称えた顕彰碑です。碑に刻まれた「開国曙光」の文字は、江戸幕府崩壊後、徳川宗家を相続した公爵・徳川家達(とくがわいえさと)の筆であり、「開国へ向けて差し込んだ明け方の光」という意味です。碑の本文は、広辞苑の編者で知られる新村出(しんむらいづる)博士によります。ここに建つ碑は、3代目。実測ルートマップでは、「開国曙光碑①」としてあります。
Img_3626c 碑はもともと、大正7(1918)年、若松尋常小学校長の伊藤六三郎氏や若Img_3629c 松村長の内山治右衛門氏などが発起人になって寄付を募り、若松小学校校門前に建設されました。しかし、碑は昭和9(1934)年の室戸台風で倒壊。千代崎海岸に2代目が再建されたものの、これも昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまいます。3代目のこの碑は、昭和51(1976)年に建てられたもの。
Img_3633c 若松地区市民センターの敷地には、この「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑も建っています。開国曙光碑のすぐ北隣にあります。調べたところ、若松地区遺族会が建てた忠霊塔でした。英霊189柱を祀る碑ということです。ただ、碑陰も確認したものの、何も由来などは刻まれていません。
Img_3657c 開国曙光碑から200mほど、若松小学校の東に大黒屋光太夫記念館Img_3659c あります。平成17(2005)年に開館。主な収蔵品は、光太夫が書いたロシア語の墨書やロシア使節の人相書、漂流記、古文書などです。現在、夏の企画展「知っておどろき!大黒屋光太夫」が10月14日まで開催されています。入場は無料。見学は10時~16時。休館日は、月・火曜日、第3水曜日(ただし、月曜日のみ休日の場合は開館)と年末年始。なお、記念館の前身は、鈴鹿市立若松小学校の校舎内に平成3(1991)年に設けられた『大黒屋光太夫資料室』です(平成17年まで)。
Img_3650c この記念館の前にあるのが、開国曙光碑の初代の一部と思います(実測ルートマップでは、開国曙光碑②と記しています)。上述の新村出博士は、「大黒屋光太夫という海外との交流の先駆者となった人物がいる」ことを広く世に知らせることに積極的だったそうです(こちらを参照)。このため若松地区でも偉業を後世に伝えていこうという気運が高まり、大正7(1918)年に「大黒屋光太夫頌功碑」が建てられたのです。しかし、上述のように室戸台風で倒壊し(2つに折れ、上部1.5mが現存)、千代崎海岸に2代目が建立されたのです。
Img_3641c 上にも書きましたように、大黒屋光太夫記念館の向かいに鈴鹿市立若松小学校があります。ここには、記念館設立に先立ち、大黒屋光太夫資料室がありました。校舎の方を見てみると、座り込んだ石像が見えました。小学校にある石像といえば、たいてい二宮金次郎像です。座った二宮金次郎像は珍しいなと思ったのですが……。
Img_3665c ズームアップして写真を撮って確かめたら、何と大黒屋光太夫の像でした。よくよく考えてみれば納得できるのですが、このときはちょっとビックリ。台座には「大黒屋光太夫之像」と刻まれています。勝手に敷地内に入れませんので、学校のサイトを見ると「台座には「皇紀二千六百年記念」 「昭和15年二月十一日」「寄贈者 若松村女子青年団」とあり台座の上の跡からおそらく石像の金次郎像があったと思われる。その後、何かの理由で金次郎像がなくなり、あとに光太夫像が昭和42年に設置されたようだ」とありました。寄付者は、「中條信男」他3名の連名だそうです。上記のリンク先に詳しい情報があります。
Img_3669c 光太夫の像の脇には道標が立っているのが見えました。 こちらのサイトによれば、もとは塩浜街道沿いの何処かにあったと思われるということです。「右 四日市道 すぐ船場」、「弘化四丁未春 施主 西城吉次郎」、「左 白子みち」とあるそうです。
 今回は、ここまで。次は、光太夫記念館の近くにある、心海寺(大黒屋光太夫家と、光太夫と共にロシアから戻った磯吉の菩提寺)、小川神社から。
 昨日(9/30)、途中で投稿した記事に加筆したものです。

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