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2018年9月24日 (月)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(予告編)

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 大黒屋光太夫の銅像であります。一昨日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」もまだ予告編しか書いていないのに、もう次か? というツッコみ、大歓迎です(苦笑)。今日は、近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ行ってきました。大黒屋光太夫のことは、多少は知っていますが、もう少しきちんと知りたいと思ってのことです。大学院を修了して、就職したのが、鈴鹿にある国立療養所(当時)でした。しかし、大黒屋光太夫にゆかりのある伊勢若松あたりはほとんど行ったことがなかったのです。
Img_3552c 今日のスタートは、近鉄名古屋線・伊勢若松駅。受付は、9時45分からでしたので、桑名を9時22分の松阪行き急行に乗車。9時45分に到着。¥440。伊勢若松駅は、江戸橋に仕事に行くときに通るのですが、降りたのは初めて(ここから分岐する鈴鹿線には何度か乗車しました)。冒頭の大黒屋光太夫の銅像は、駅前にあるもの。昭和62(1987)年、若松小学校創立100周年記念として、小学校校庭に建立されたものが、「大黒屋光太夫記念館」完成を機に、光太夫のふるさとの玄関口となる伊勢若松駅前に移設されました。
 大黒屋光太夫は、宝暦1(1751)年~文政11(1828)年。江戸時代、ロシアに漂流した船頭です。大黒屋は屋号。養子に入り、亀屋兵蔵と称したこともあります。天明2 (1782) 年 12月、伊勢の白子から江戸への航行中、駿河灘で台風にあい、7ヵ月余漂流を続けて翌年夏、アリューシャン列島のアムチトカ島に着き、4年後、カムチャツカ半島に渡ります。のち帰国を願ってシベリアを西行し、1791年、首都ペテルブルグにいたり、女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見。寛政4 (1792) 年、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し、将軍家斉に謁見しています。吉村昭の小説「大黒屋光太夫」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」のモデル。
Img_3530c 本日のコースマップ。表裏になっています。いただいたもののナンバーは、416。伊勢若松駅をImg_3533c スタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、心海寺、宝祥寺、光太夫らの供養碑、若松緑地堤防(漂流記壁画)と、ここまでは光太夫ゆかりのところを訪ねます。その後、江島若宮八幡神社、勝速日神社とこのあたりの有名な神社に立ち寄って(この2社は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で訪ねています)、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約8㎞となっています。スタートは10時。
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 こちらは、実際に歩いたルートマップ。コースの他にいくつか寄り道、道草をしたところがありますので、9.5㎞を歩いてきました(苦笑)。ここにキョリ測に描いたルートがあります。ちなみに今日のルートはほぼ平坦。最高地点は、6m(最低は、0m)。いつものように、今日のところは予告編であります。
Img_3560c_2 最初の立ち寄りスポットは、緑芳寺。伊勢若松駅から300mほど。真宗大Img_3564c 谷派のお寺。光太夫の菩提寺(生家といわれる亀屋の菩提寺)です。
Img_3571c 今日は、特別にお宝を見せていただけました。左は、エカテリーナ2世かImg_3573c ら下賜された銀貨。エカテリーナ2世の像が刻まれています。寛政7(1795)年8月、光太夫が寄進したもの。右は、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)。当然、小生には読めません。これも光太夫ゆかりの品。
Img_3575c 光太夫からは離れますが、緑芳寺には、松尾芭蕉句碑があります。「雁ゆくかたやしろ子若松」と刻まれているそうですが、ほとんど読めない状態。というのも、当時の住職であった櫟玄籍によって嘉永年間(1848~54)に建てられたという説があるそうです。これは、元禄3(1690)年、越人の『ひさご』の中の花見の部にでています(こちら)。菅沼曲水珍碩らと詠んだうちの付句。付句を刻した碑としては全国的に非常に珍しいといいます(三重の句碑)。
Img_3593c 緑芳寺からは1.3㎞ほど、近鉄名古屋線沿いの水田地帯を歩Img_3621c_2 いて行きます。鈴鹿市若松地区市民センターの敷地内に「開国曙光碑」があります。この碑は光太夫の功績を称えた顕彰碑です。
Img_3623c 碑に刻まれた「開国曙光」の文字は、江戸幕府崩壊後、徳川宗家を相続した徳川家達公爵の筆であり、「開国へ向けて差し込んだ明け方の光」という意味。碑の本文は、広辞苑の編者で知られる新村出博士によります。ここに建つ碑は、3代目。もともと、大正7(1918)年、若松尋常小学校長の伊藤六三郎氏や若松村長の内山治右衛門氏などが発起人になって寄付を募り、若松小学校校門前に建設されました。しかし、碑は昭和9(1934)年の室戸台風で倒壊。千代崎海岸に2代目が再建されたものの、これも昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまいます。3代目のこの日は、昭和51(1976)年に建てられたもの。
Img_3657c 開国曙光碑からすぐ、鈴鹿市立若松小学校の東に大黒屋光太夫記Img_3650c 念館があります。平成17(2005)年に開館。主な収蔵品は、光太夫が書いたロシア語の墨書やロシア使節の人相書、漂流記、古文書などです。現在、夏の企画展「知っておどろき!大黒屋光太夫」が10月14日まで開催されています。入場は無料。この記念館の前にあるのが、開国曙光碑の初代の一部と思います。なお、記念館の前身は、鈴鹿市立若松小学校の校舎内に平成3(1991)年に設けられた『大黒屋光太夫資料室』です(平成17年まで)。
Img_3665c 大黒屋光太夫記念館の向かいにあるのが市立若松小学校。その敷地に石像が見えました。二宮金次郎像かと思ったのですが、座った像です。二宮金次郎像で座ったものは見たことがないなどと思って、カメラを超望遠にしてよく見たら、大黒屋光太夫であるということでした。さすが、光太夫の地元。光太夫の石像の脇には、道標が見えましたが、勝手に小学校敷地内には入れず、確認できません。
Img_3676c 記念館のすぐ南にあるのが、心海寺。真宗高田派のお寺。元禄16(1703)年に現在地より東に約300メートルの場所に創建されました。しかし地盤沈下などで本堂の床下まで浸水するようになり、明治23(1890)年にここに移転されました。大黒屋光太夫家と、光太夫と共にロシアから戻った磯吉の菩提寺です。磯吉(明和3(1766)~享保14(1729)年)は、大黒屋光太夫の神昌丸乗組員。このあと訪れた光太夫らの供養碑で、地元の方に伺ったところ、磯吉の子孫の方が今もいらっしゃるそうです。
Img_3683c 心海寺の境内には寄進者・大黒屋銀太夫、同彦太夫の名が刻まれた御手洗石(享保14(1729)年)があります。享保14年ですから、光太夫が生まれる前。先祖ということになります。
Img_3693c コースには入っていませんが、小川神社。心海寺の向かって西に御鎮座。延喜式内社とあります。旧社格は、村社(明治42(1909))年)。由緒は、大同4(809)年2月奉斎と古い棟札にあったそうです。また、天明6(1786)年までは春日社の相殿でした。明治44(1911)年、現在地に移転したといいます。
Img_3705c 明治40(1907)年、42(1909)年の2回にわたり村内の神社を合祀したといImg_3713c います。その関係か、御祭神は賑やか。主祭神は、弥都波能売神(みずはのめのかみ:水の神)。相殿神は、宇気母知神、大国主神、木花佐久夜毘売命、大山津見神、天児屋命、迩迩芸命、市寸島比売命、伊邪那美命、天照大御神、迦具土神、品陀和気命、菊理比売命、瀬織津比売命、上津綿津見命、中津綿津見命、底津綿津見命、大山咋命、宇加之御魂神。今日のところは、主祭神のみ調べました。境内には、弁天様もありました。
Img_3745c 小川神社からは、記念館と心海寺の間を通って、宝祥寺へ。真宗高田派。ここは、光Img_3733c 太夫とともに帰国した小市の菩提寺。光太夫と帰国できたのは、この小市と磯吉だけでした。しかし、小市は、根室に到着して約半年後の寛政5(1793)年4月2日に根室で亡くなってしまい、伊勢には戻れませんでした。この寺には、小市の供養碑があります。
Img_3759c 宝祥寺から200mほど南へ行った、千代崎漁港近くの住宅街の真ん中のImg_3757c 墓地に大黒屋光太夫の供養碑があります。光太夫らが消息を絶った2年後(天明4(1784)年に、荷主である木綿問屋長谷川家(松阪の出身)によって建てられています。長谷川家(丹波屋)は、松阪の豪商のひとり。5月26日のJRさわやかウォーキングで松阪に残るお屋敷を訪ねています(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(予告編))。先に触れた、磯吉の子孫の方は、この近くにお住まいだそうです。
Img_3787c 供養碑の近く、若松漁港のところにある若松緑地堤防には、「漂流記壁Img_3785c 画」があります。その名の通り、漂流記を10枚の絵にしてあります。ここでほぼ11時半。
Img_3817c ということで、この若松緑地で、昼ご飯にしました。コンビニ弁当ではありImg_3823c ますが、ガパオライス。ファミマで購入。好き好んでこれにしたのではありません。ハイキング/ウォーキングの時は、あまりたくさん食べるとそのあと、歩くのに差し障りがあります。少なめの弁当を桑名駅の駅ナカコンビニで探したら、これしかなかったのです(苦笑)。タイ料理とか。ガパオ炒め、ブロッコリー炒め、パッタイ風春雨炒めと目玉焼き風オムレツがトッピングしてありました。税込360円。今日は、コースにコンビニはなく、あらかじめ買っておいてよかった(微笑)。
Img_3832c 12時過ぎに再スタート。若松漁港近くで、イソヒヨドリのメスを目撃。漁港Img_3858c の南で、千代崎海岸に出ます。海水浴場もありますが、台風の影響か、海岸には漂着ゴミ、流木などが一杯。
Img_3865c 千代崎海水浴場の観光案内所(現在は閉鎖中)のところで、2代目の開国曙光碑を確認。昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまったものが、これです。このあと、南若松町内の住宅街を歩いて行きます。伊勢街道から一本東の道。
Img_3884c 伊勢若松駅から5.7㎞のところに、春日神社天児屋命(あめのこやねのImg_3897c みこと)を祀っています。創祀年代は不詳。明治41(1908)年、南若松の小川神社へ合祀されましたが、昭和26(1951)年、氏子の総意により元の鎮座地へ分祀され今に至っています。
Img_3940c さらに南に1㎞半ほど。江島公園に到着。ひたすら歩いてきました(苦Img_3934c 笑)。公園内に「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港」という案内板があります。本能寺の変に際して(天正10(1582)年)、伊賀越えをして、亀山を抜け、6月2日ここ江島北部(当時は、川南村)にたどりつきました。小川孫三の農事納屋に身を隠したのち、6月4日に白子若松浦から孫三の漕ぐ船で脱出したのです。ちなみに、このあと家康は、小生の生まれ故郷である三河国大浜に上陸しています。なお、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けたのは、伊勢商人の角屋七郎次郎秀持ともいいます(こちらWikipediaの説明)。
Img_3955c 江島公園のすぐ南西には、江島若宮八幡神社があります。ここは、3月Img_3958c 17日の近鉄ハイキング「近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で来ました(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を人皇六十代延喜帝醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷したといいます。
Img_3961c 江島若宮八幡神社は、伊勢湾にほど近いところにあり、江戸時代から海上の守護神として信仰を集めて来ました。安全祈願などで奉納された多数の絵馬がありますが、そのうち、江戸時代の71面は三重県の有形民俗文化財に指定されています。今日は、予約制の宝物館の扉が開けていただいてあり、絵馬を直接見られました。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄があります。廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰が窺えます。
Img_4019c 江島若宮八幡神社の近くからは、しばらく伊勢街道を下ります。このあたImg_4026c りは、3月17日の近鉄ハイキング「近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で、上ってきたところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。このあたりには、「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」、「江島陣屋跡」などがあります(3月21日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ
Img_4039c 今日のコースには買えるところはないと諦めていたのですが、ありましImg_4144c た。鈴鹿の銘菓・大はら木久住屋菓舗さんのお店の前のところで曲がるというルートでした(微笑)。3月の時は、小原木本舗大徳屋長久さんで購入しました。鈴鹿で働いていましたので、懐かしいお菓子。手焼きした柔らかいおせんべいに粒あんが挟んであります。
Img_4042c 久住屋菓舗からあとは勝速日神社に寄ってゴールだと思っていたら、體用山(たいゆうざん)青龍寺がありました。3月のハイキングで下調べはしていたものの、足を伸ばさなかったところです。真宗高田派のお寺。あまり有名ではないようですが、お宝は充実しています。
Img_4053c 徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」、「弘法大師の手形、第11次朝鮮通信使(1746年)の通訳官、朴徳源の肉筆による
「體用山(たいゆうざん)」の額の3点です。白子は紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったようです。「弘法大師の手形」は、弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。青龍寺は、もとは真言宗のお寺でした。
Img_4072c そして、いよいよ最終立ち寄りスポットは、勝速日神社。ここは、3月のハイキングで寄り道したところ(3月23日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その5)……白子港、伊勢型紙資料館、龍源禅寺、勝速日神社などを経てようやくゴール(完))。文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建 といわれ、創建時には八重賀岐神社として素戔嗚尊(スサノオノミコト、牛頭天王)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)が祀られていました。
Img_4093c 寛永11(1671)年、八重垣神社の神域に龍源寺の境内に祀られていた勝手明神(天之忍穂耳命(アマノオシホミミノミコト)、天御蔭命(アマノミカゲノミコト)の2柱を遷し、元禄に至るまで2社を並べて祭祀していました。元禄以降、一社殿としています。さらに、明治41(1908)年、春日神社他附近の小祀6社を合祀しています。
Img_4092c 主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父。この神社がある鈴鹿は、鈴鹿サーキットがあり、F1も開催されるモータースポーツの聖地。レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるところ。
Img_4103c ゴールは、こちら近鉄名古屋線・白子駅。13時42分に到着。9.5㎞を完歩Img_4138c しました。コースマップでは8㎞でしたが、寄り道もしましたし、よく歩いたという感じでした。13時51分発名古屋行き急行に乗車して帰宅。桑名駅は、14時22分。¥490。あみま倶楽部スタンプは、これで19個。
 予告編からとてつもない長編になりまして、恐縮。JRさわやかウォーキングの記事が終わったらゆっくりと本編を書くことにします。

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