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2018年9月20日 (木)

20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その3)……豊栄稲荷神社、長倉神社、大矢知砦跡そして桑名城城門のある照恩寺

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 9月15日の近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古20180915kintetsuhikingkasumigaura4 代歴史館を訪ねる」への続きです。その2では、くるべ古代歴史館を見て、長倉神社の一の鳥居までやって来ました。実際に歩いたマップは、右の画像の通り。マップ上、くるべ古代歴史館のところに茶色の○がつけてありますが、このあたりが久留部官衙遺跡です。長倉神社の一の鳥居は、「5km」とあって左へ入るところにあります。
Img_5333c 一の鳥居から坂道を100mほど登ったところに二ノ鳥居があります。長倉神社は、この小山の中腹にあるようです。二の鳥居をくぐっていくと、すぐにお稲荷さんの朱い鳥居が並んでいます。
Img_5337c ここが、豊栄稲荷神社です。先にこちらに立ち寄っていくことにします。ネット検索では何も情報は出て来ません。神社検索(三重)の長倉神社の項目にも言及はありません(ただし、後述のように、長倉神社の御祭神に宇迦能御魂神はあります)。また、こちらのサイトには、長倉神社の御祭神に豊栄大神の名前が記載されています。「とよさかいなりじんじゃ」と読むと思われます。ちなみに、鳥居にある額には「豊栄大神」とありました(2ヶ所)。
Img_5341c 左は拝殿。拝殿に向かって右側に掲示板がありますが、ここに書かれていImg_5345c たのは、お神籤の内容を引き写したような文章でした。由緒書きその他は、残念ながら見当たりませんでした。
Img_5350c_2 長倉神社に登って行く道に近い参道の鳥居脇に、石碑が建っていました。「祈念表」とあり、大正9(1920)年7月に、素麺製造のための機械が発明され、それを組合が率先して試用したところ収益顕著に加わり、幾多の改善が得られたことを祈念して建てたといった趣旨の内容が記されていました。石碑には、発起人として松永仁吉、水谷丑松、人見猪之松の3名のお名前。他多数の名前が刻まれています。大矢知は、江戸時代末期(約200年前)から素麺造りが、農家の副業として行われるようになったところです。旅の僧侶をもてなしたお礼として素麺の作り方を伝えられたという話も伝わっています。大正時代中頃には、それまでの手延べ生産から機械生産に次第に移ったということですから、この石碑はそれに関わるものと思われます。生産量は、全国の1%にも満たないそうですが、コシの強さには評判があります(こちらも参照)。
Img_5353c 話が逸れました。豊栄稲荷神社の上側の鳥居の向かいあたりにも石碑Img_5357c が一つあったのですが、このようにかなり古びたもので、何が刻まれているかは、まったく判読不能でした。長倉神社には、豊栄稲荷神社からさらに100mほど登って行かねばなりません。もう4㎞半くらい歩いてきていますし、気温は高くなかったものの、湿度はかなりあり、汗をかいていましたから、ちょっと大変。このあたりで時刻は11時40分頃。
Img_5374c ようやく長倉神社に到着。境内は結構広くなっていました。すでに述べまImg_5382c したように、延喜式内社。江戸時代には八幡神社と称して、應神天皇を奉斎していたといいます。創祀不詳。主祭神は、応神天皇。相殿神は、木花之佐久夜毘売神(このはなさくやひめのかみ:大山祇命の娘、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃にして、富士山の神。浅間神社に祀られる)、大山祇命(おおやまつみのみこと:山をつかさどる神)、高龗神(たかおかみのかみ:雨をつかさどる神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる)、宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ:五穀、食物をつかさどる)。
Img_5372c  明治41(1908)年2月、大矢知村大字大矢知字山畑の無格社・斎宮神Img_5370c 社、井後神社、山神社二坐を合祀しています。さらに、同年10月、字冨士谷の村社桜神社も合祀。昭和6(1931)年、村社から郷社に昇格。同年神饌幣帛料供進社に指定されています。このうち、斎宮神祠は天武天皇が天照大神を拝んだ迹太川遙拝所跡だという説があります(こちら)。
 
Img_5402c  なお、大矢知はもともと桑名藩領でしたが、後述のように、江戸時代末期に忍藩(おしはん)領となりました。その際には、藩候自らが斎主となって 祭典を行い、武運長久、御陣屋繁栄、領内安全を祈願しています。嘉永6(1853)年から安政・文久・元治2年迄、正月・三月・八月の一七日に当社並に桜神社に代拝を行ったといいます。
Img_5375c さてこの長倉神社、境内にはいろいろなものがありました。まずは、神馬Img_5379c 殿。白馬の人形(?)が御鎮座。殿舎の額をしっかり見てこなかったのはちょっとした失敗(苦笑)。
Img_5408c 神馬殿に向かって左手には、「宮城遙拝所」があります。宮城は、もちろImg_5413c ん皇居。皇居に向かって建てられており、ここから遙拝したと考えられます。皇紀二千六百年(昭和15年、1940年:神武天皇の即位から2600年目に当たるとされた)に建之されています(これはある意味、お約束)。献主は、人見重吉。さらに、境内に入る鳥居脇には、「神宮遙拝所」。神宮は、もちろん伊勢神宮。伊勢神宮に向かっています(右の写真)。こちらも皇紀二千六百年に建之。献主は小林三郎。今まで、近鉄ハイキングなどであちこち神社を訪ねた範囲では、四日市市の北部にこういう宮城遙拝所や、神宮遙拝所が多い印象を持っています。
Img_5392c 拝殿の前には、「御即位祈念」の石柱。碑陰を確認しますと、「大正四(1915)年Img_5404c 十月建之」とあり、寄附人は、吉原庄右エ門他5名の方たちのお名前。ということは、大正天皇が即位された記念に奉納されたということです。大正天皇の即位の礼は大正3(1914)年に行われる予定でしたが、貞明皇后の第四子懐妊(後の三笠宮崇仁親王)により1年延期となり、大正4(1915)年に京都御所で行われています。
Img_5419c 拝殿に向かって左手、境内の西側の小山の中腹に石碑が1つあります。昇格を記念する碑と読めるのですが、上部に何と刻んであるのか、不勉強にして読めません(苦笑)。碑文のはじめのところには「○格記念碑」とありますので、昇格記念碑ではないかと考えた次第。「三重縣知事 従四位勲三等 市村慶三 題額」とあります。昭和6(1931)年10月に建之されていますから、郷社に昇格した年。撰文は、神宮禰宜 正五位勲五等 阪本廣太郎、書は正七位 勲七等 安孫子春雄となっています。ちなみに、石碑を刻んだのは、根来市蔵とあります。根来市蔵は、桑名・吉津屋町にある石市のこと。現在は、15代と看板にありますが、北星地区のあちこちの石碑などにその名があります。
Img_5396c 神社の拝殿脇には、「大矢知砦跡」の説明板もあります。それによれば、Img_5400c 南北朝時代(1331~1392)、北勢地区は南朝方の北畠氏の配下でしたが、足利幕府(北朝)は伊勢守護を二木義長に命じ、文中元(1372)年、大矢知に砦を築いて伊勢攻略の足がかりとしました(二木義長は、仁木義長か?)。このとき、南富田の地頭・南部頼勝(こちらに出て来ます)が北朝方の二木氏に味方して大矢知砦に立てこもり、いったんは南朝軍を破ったものの、垂坂山の合戦(こちらに言及があります)で大敗北してのち、廃城になったといいます。
Img_5423c  長倉神社、小生より先に訪れた方は、「寂しい神社だった」とおっしゃっていたのですが、なかなか面白いところでした。台風21号のあとで、氏子の方が境内の掃除や、片付けをしていらっしゃいました。蒸し暑くて、蚊に何度も襲われました(苦笑)。未確認事項や、よく分からないこともありますが、次に進みましょう。
Img_5432c 長倉神社の一の鳥居から来る途中、お寺があるのを確認していました。というか、くるべ古代歴史館を出たところで、おばちゃん(などと失礼な言いぐさですが、小生よりも年配の女性、お二人連れ)から、「こっちの道でいいの?」と聞かれ、神社までご一緒したのです。そのおばちゃんたちが、神社と間違えたのか、このお寺に入って行かれ、気づいたという訳。
Img_5460c ここは、今日のハイキングのコースには入っていませんでしたが、時間的にも、距離的にも余裕がありましたので、寄り道。結果論ですが、これが幸い(微笑)。青木山照恩寺という、浄土真宗本願寺派のお寺。開基は天文4(1535)年。寛文10(1634)年12月に本願時代13世・良如上人から阿弥陀如来像と寺号を下賜されています。現本堂の創建は宝暦年間(1746~1751年)と伝えられています。
Img_5434c 本堂脇にこのような説明板があったのです。山門が、桑名城内の城門の一つで、四日市市蒔田にある長明寺に移転されたのち、大正15(1926)年に照恩寺に受譲されたという記述が棟札にあるというのです。これは知りませんでした。私にとっては新発見(笑)。ちなみに、長明寺へは一度いったことがあります。去年11月9日に「旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ」で立ち寄りました(2017年11月10日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。長明寺は、ちなみに、蒔田城跡といわれ、中世にお城があったとされます。長明寺の周りには現在も城の堀が残っています。
Img_5451c こちらがその山門。この旧桑名城の門を見つけられたのはラッキーでした。寄り道は楽し、であります。長くなりましたので、その3はここまで。もうゴール目前ですが、忍藩大矢知陣屋跡である四日市市立大矢知興譲小学校についても書くことがいくつかありますから、その3はここまで。その4で、ゴール予定。

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