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2018年9月18日 (火)

20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その1)……霞ヶ浦駅をスタートし、浄恩寺、浄恩寺道標、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡まで

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 9月15日に出かけた近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」の本編です。この日は、修復工事中の諸戸氏庭園の工事現場見学会もありました。若干迷ったものの、こちら、近鉄ハイキングに参加しました。今日になって、見学会にいらしたご近所の方に伺うと、「御殿にもあげてもらったよかったよ」というお話しでした。う~む、微妙なところです。ハイキング当時は、朝から雨模様。ネットで何度も雨雲レーダーを見ていましたが、9時を回ってから雨雲が見えなくなりましたので、9時半過ぎに出発。
Img_5158c いつもより1時間ほど遅く、桑名駅を9時52分の津新町行き普通電車に乗車して、スタートの近鉄名古屋線・霞ヶ浦駅へ。10時5分に到着。¥260。同じ電車に20~30人くらいハイキング参加者が乗っておられました。受付は、9時から11時ですから、楽勝。
Img_5156c 左の写真が配布されたコースマップ。霞ヶ浦駅から浄恩寺、荒木十兵衛頌20180915kintetsuhikingkasumigaura1 徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡、くるベ古代歴史館、長倉神社、丸井屋老舗と回って、三岐鉄道三岐線・大矢知駅がゴール。マップ上は、5.9㎞。右は、この日実際に歩いたルートをキョリ測に描いたもの(こちらでご覧いただけます。拡大もできますし、標高も見られます)。浄恩寺、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡の3ヶ所は、去年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」の時にも立ち寄っています(2017年12月24日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。また、くるべ古代歴史館と、長倉神社の2ヶ所は、7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」の時、近くを通ったものの、コースには含まれていなかったところ(20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!)。
20180915kintetsuhikingkasumigaura2 実際に歩いたルートの拡大マップ(その1)。霞ヶ浦駅から踏切をわたって北西へ。垂坂公園の方角へ1㎞半ほど。羽津中、別名という地名。このあたりは住宅街。
Img_5173c とくに見るべきところはありませんが、霞ヶ浦駅の北には、ミエ・ヘア・アImg_5177c ーチストアカデミーという美容学校があります。その北西には、羽津文化幼稚園。けっこう派手な建物。
Img_5181c 出発からちょうど1㎞半、別名3丁目と南いかるが町の境で右折。北東Img_5182c へ。傘を差した方が写っていますが、実は、霞ヶ浦駅でスタートするとき、霧雨が降っていたのです。小生は傘は差しませんでしたが、結局、ゴールするまで霧雨模様でした。余談。「いかるが」というと、法隆寺のある斑鳩を思い浮かべるでしょうが、このあたりは「伊賀留我」。神社の名前にもなっています。去年12月24日の「近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完)」をご参照ください。
20180915kintetsuhikingkasumigaura3 2㎞を過ぎて、しばらく行くと、斑鳩山浄恩寺に到着(左のルートマップその2を参照)。初めの方に書きましたが、ここには、去年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」の時にも立ち寄っています(2017年12月24日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
Img_5186c 浄土真宗本願寺派。天延2(974)年10月、大僧正良源が舟木兵部少輔Img_5189c 良兄に招かれて垂坂山でしばらく居住した際に、弟子の覚鎮が当地に斑鳩山大膳寺を創設、天台宗寺院として栄えたのを前身とします。ちなみに、良源は、康保3 (966) 年、第 18世天台宗座主に就任し、叡山中興の祖といわれます。慈慧大師と勅諡されました。
Img_5192c 長享2(1488)年3月、本願寺の蓮如上人が当地に寄ったImg_5194c 際、その教化を受けて延徳年間(1489~1490年)に浄土真宗に転じたといいます。このとき、蓮如上人から御親筆六字及び十字の名号が与えられ、寺宝として残されているそうです。現在の本堂は明治28(1895)年の建立。
Img_5201c 境内には、聖徳太子堂があります。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したImg_5204c ため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されているのです。この太子堂は、明治2(1869)年に、四日市市西富田町にある三光寺(浄土真宗本願寺派)から移建されたものです。
Img_5206c 霧雨模様であったためか、前回伺ったときよりも、いい雰囲気のお寺にImg_5212c 感じました。
Img_5220c 浄恩寺を出てさらに北東へ。県道64号線を横断歩道橋でわたります。南Img_5224c 東を見ると(左の写真)、四日市港方面がよく見えます。四日市港ポートビルや、ガントリー・クレーンなども見えています。右の写真は、北西方向。この先には、北勢バイパスのインターチェンジがあります。この横断歩道橋は、伊賀留我神社前交差点のすぐ近くにあります。伊賀留我神社は、南北2社があり、そこには、去年12月22日の近鉄ハイキングで寄り道しています(近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
Img_5231c  次の立ち寄りポイントの荒木十兵衛頌徳之碑の手前で、「浄恩寺道」とImg_5233c 書かれた石柱を見つけました。こういう道標、石柱のたぐいも気になります(微笑)。。「昭和貳年三月 道路改修祈念 現住専行」とあります。ここは、十四川のほとり。浄恩寺への参道であることを示すものと思われます。昭和2年ですから、1927年の建立。こちらの道標リストにありますが、詳細はネット情報では出て来ません。
Img_5242c 荒木十兵衛頌徳之碑です。このあたりで3㎞の手前、時刻は10時50分を過ぎた頃。荒木十兵衛は、桑名藩領朝明郡北鵤村の庄屋で、羽津用水を築造した人物です。田園地帯であるこの地は七つのため池があるものの、水利に恵まれずたびたび干害に見舞われました。十兵衛は村を干害から救うために、困難な利害を調整し、朝明郡平津村(現平津町)の朝明川から取水工事を行い、宝永3(1706)年全長6㎞に及ぶ羽津用水を完成させました。この用水のおかげで北鵤、羽津、茂福等の村々の水田に水を潤すことができ、作物も豊かに実るようになったといいます。
Img_5249c しかし、同年、十兵衛の俊英を恐れた桑名藩は、褒賞を与えると見せかけて十兵衛を城内に召し、毒殺してしまったそうです。昭和27(1952)年(昭和28(1953)年4月としている情報源もあります)、四日市市長の吉田千九郎は十兵衛の功績を讃え、顕彰碑を北鵤の地に建てました。鵤説教所には、荒木十兵衛の位牌が安置されているそうです。なお、羽津用水の開削者については、時の郡代・野村増右衛門とする異説もあります(ただし、こちらは根拠が弱いようです。上記の羽津用水のリンク先をご覧ください)。
Img_5246c 荒木十兵衛頌徳之碑に並んで「殉難の碑」があります。こちらは、羽津用水改作の際、十四川と交差させる地下の難工事で殉じた方々のためのものです。
Img_5251c  荒木十兵衛頌徳之碑および殉難の碑から50mほどのところには、天武天Img_5257c 皇迹太川御遥拝所(てんむてんのうとおがわごようはいじょ)跡があります(県指定史跡)。大矢知町の民家の隣。壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家に進み、さらに朝明郡の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したといいます。御遥拝所跡の碑が立つこの地は、江戸時代の人がその場所であると考えたところだそうです。
Img_5262c  慶応2(1866)年に造立された石柱には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉Img_5261c 宮」とあります。近年まで松の古木が立っていたといい、そのためこの地が御遥拝所跡として昭和16(1941)年に指定されたのです。松は平成14(2002)年に枯れ、今は、地元自治会が植えた槇の木があります。去年12月に来たときもそうでしたが、ここはよく手入れされており、雑草も生えていませんでした。
Img_5258c この御遥拝所跡は、川沿いにあります。川は、十四川(じImg_5264c ゅうしがわ)で、古くは、咒志川(しゅうしがわ)といったようです。「迹太川(とおがわ)」は、現在の「米洗川」とされます(ホントに歩く東海道など)。米洗川を調べると、垂坂公園の北から東にかけて流れている川が出て来ます(こちらなど)。この地に「天武天皇のろしの松」とされた老松があったために天武天皇の御遥拝所と定められたということですから、確かにここで大海人皇子が戦勝祈願をしたかどうかは、分かりません。
4c3861c6 これは、伊賀留我神社(北)にある説明板(去年12月22日の近鉄ハイキングの時に撮影)。これによれば、伊賀留我神社は、斎宮と記されており、斎宮は伊勢神宮の斎宮ですから、伊勢神宮との関連があると思われます。また、鵤の地名は、大和の斑鳩との関わりも伺わせます。ここ鵤は、聖徳太子の御料地という言い伝えもあるそうです。この御遙拝所跡の北西には、「斎宮」という地名があり(ルートマップその2を参照)ます。また次の立ち寄りポイントである久留部官衙遺跡も近く、このあたりは歴史のクロスロードという感じです。
 ということで今日はここまで。次は、くるべ古代歴史館から。

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