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2018年7月10日 (火)

アンパンマンバスに乗って「東海道旧蹟撮影」へ

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 午後1時過ぎに32℃を超えました。梅雨明け、猛暑とお約束の通り(苦笑)。冒頭の写真のように、バス停におります。この間から時々書いていますように、九華公園の次の展示パネルの準備中。「桑名の東海道(仮称)」です。パワーポイントでパネル原稿をつくっているのですが、写真を撮り忘れていたり、どうも今ひとつという写真しかなかったりということが起きてきます。そこで、今日は、七曲見附跡と蟠龍櫓の再撮影。バスに乗って出かけ、その後は歩いてこようという算段。
Img_8940c 寺町商店街近くの寺町バス停から長島温泉行きのバスに乗車。このルーImg_7978c ト、ご覧のように「アンパンマンバス」が走っています。なぜかというと、ナガシマスパーランドに「名古屋アンパンマンこどもミュージアム&パーク」があるからです。このバス、よく見かけていましたが、乗車は初めて。もっとも内部は、ごく普通のバスでした(笑)。
Img_7980c 寺町バス停を8時38分に発車。5分で目的地の萱町バス停に到着。¥180。Img_7983c たかだか1.4㎞ほど(苦笑)。歩いてももちろんいけますが、この暑さの中、全行程を歩くのは大変と思ってのことです。目的地の七曲見附跡は、旧東海道にあった桑名藩の見附跡。今は、日進小学校と、道路を挟んだ消防団の車庫のあたりにありました(右の写真)。ここも枡形になっていたのですが、今はありません。右の写真で、向かって右手奥から来て、写真からは外れますが、左の方で奥に曲がるルートになっていました。
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 東海道上に七曲門(または釘貫門)があり、桑名城下南端の見附。この名前は、七里の渡しから7度曲がったところにあるからといいます。小学校の敷地内に左の写真のような案内板があります。7月3日に市内の東海道を歩いた記事は、7月4日のブログに載せました(桑名市内旧東海道を歩く(その2)……天武天皇社から十念寺まで【七曲見附跡などについて追記しました(7/5)】)。
Img_7999c  ここから九華公園まで歩いたのですが、その前に一ヶ所立ち寄り。日進Img_7998c 小学校のすぐ北に日蓮宗自栄山顕本寺があります。もとは天台宗で、大泉寺といい、三の丸付近にありました。永正6(1509)年、日蓮宗に改宗。慶長の町割の際、現在地へ移転。
Img_8001c 今回の「桑名の東海道」には載せませんが、ここは檀家に桑名藩士が多く、桑名藩ゆかりの人Img_8002c 物のお墓があるのです。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されています。今まで見たことがありませんでしたので、今日、立ち寄って来ました。
Img_8022c まずは、水谷九左衛門光勝(みつかつ)の墓(市指定文化財)。左の写真で向かって右がそれです。水谷光勝は、伊勢塩浜あたりの出身と推測されています。徳川家康最大の難とされた、本能寺の変の際の「神君伊賀越え」の折、伊勢から三河への渡海の案内をしました。その後、四日市代官、名古屋城築の作業奉行、山田奉行などを歴任しています。
Img_8009c  もう一基、市指定文化財になっているのは吉村権左衛門宣充(よしむらごんざえもんのぶみつ)の墓。宣充は福島正則に仕えて、多くの戦功を挙げたものの、福島家が取り潰され、浪人となってしまいました。あちこちの大名からの誘いがあったのですが、彼は一万石を要求したので、なかなか引き受ける大名はありませんでした。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20(1643)年に、名目五千石、実質一万石で招きました。 その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めたのです。宣充は慶安3(1650)年に没し、ここ顕本寺に葬られました。
 さらに、これは桑名の方でもあまりご存じないと思うのですが、服部半蔵の墓も、顕本寺にあります。「半蔵」は、服部半蔵家の歴代当主の通称の名乗りです。2代の服部半蔵正成は、上述の神君伊賀越えの際、家康を助けた功で伊賀忍者を束ねることとなり、晩年は大名格の一万石を与えられました。
 その二人の息子が桑名藩に関係したのです。兄正就は父と同じ石見守を名乗り、桑名藩主・松平定勝公の娘・松尾を妻としました。仔細あって改易を申し付けられ、伊賀同心の支配の役目を解かれ岳父である松平定勝の元で蟄居となっています。
 弟正重は、兄の後を継いで服部半蔵を襲名し、徳川秀忠の小姓や家康の近侍、佐渡金山同心を務めました。のちに改易となり、その後、桑名藩主・松平定綱公に年寄の身分で召し抱えられ、二千石を得ました。これによって桑名藩の家老として服部半蔵家が存続したのです(大服部家)。
 なお、正就の系統は、上述のような血統から藩主一族の扱いを受け、重臣たちが住まう丸の内にひときわ大きな屋敷を与えられるなど、服部半蔵家以上に優遇されました(小服部家)。
Img_8015c  顕本寺には、服部半蔵を名乗り、家老となった系統の服部家の墓があります。現存するのは、正重(伊豆守)、正啓(正賢)、日記(内記)、正義です。
Img_8043c 九華公園には9時20分過ぎに到着。思ったより早く着きました。大雨の影Img_8041c 響で揖斐川の水が濁っており、堀に導水できない状態が続いています。そのため、堀の水位はかなり低下。右の写真のように、露出した岩にカメたちが乗って甲羅干し(いつもの甲羅干しスロープは、水面から10cm以上高い位置になってしまい、登れません)。
Img_8050c 九華公園内はいつものように一回り。この暑さなのに、散歩友達の高齢者の皆さん、元気に歩きに来ていらっしゃいます。蟠龍櫓に立ち寄って撮影。いつもは西側(三の丸公園側)から撮ってしまい、このような揖斐川の方からの写真(左のもの)は、あまり撮りません。こちら側の屋根に「蟠龍」が乗っています(写真中央あたり)。「蟠龍」は、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣ですから、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
Img_8950c ということで、我が家から寺町バス停までと、萱町バス停から我が家までとをあわせて5.3㎞の散歩でした。アブラゼミの声が賑やかになって来て、いかにも夏を思わせます。時節柄、皆様にはご自愛ください。

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