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2018年7月 5日 (木)

桑名市内旧東海道を歩く(その3)……光徳寺から京町見附跡へ(一応、完結)【七ツ屋橋にあった常夜灯の写真を変更(7/7)】

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 「桑名市内旧東海道を歩く」のその3です。森陳明の墓があり、七福神まつりが行われる十念寺まで来ました。このあたりにはお寺がたくさん集まっています。地名でいうと、伝馬町から新町あたり。この東にある萱町、新屋敷にもお寺があります。
Img_8451c 光徳寺。山号は、鎮照山凝念院(ちんしょうざんぎょねんいん)。浄土宗。鎌Img_8459c 倉時代に泡洲崎念仏道場として創建されています。天文2(1533)年、智恩院の徳誉上人が荒廃していた道場を再建して「光徳寺」と名付けたといわれています。明治7(1874)年には、日進小学校の前身「進善学校」がこの寺で開始されました。
Img_8463c 光徳寺には、萬古焼の創始者である沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓(三重Img_8465c 県指定史跡)があります。沼波弄山(享和3(1718)~安永6(1777)年) は 、 桑名・船場町の商人で、茶道や作陶を学び、小向(現在の三重郡朝日町小向、当時は桑名藩領)の別荘内に窯を作り製陶を始めました。後には江戸へ出て作陶し、その舶来趣味的な陶器は好評を博しました。弄山は「萬古不易」の印を用いたので、彼の作品は「古萬古(こばんこ)」と呼ばれます。
Img_8478c 光徳寺の隣には、泡洲崎八幡社があります。御祭神は、誉田別命。相殿Img_8481c 神は、天照大御神と天児屋根命。昔、新町から江場にかけての一帯を「泡洲崎」といい、 泡洲崎八幡社はこの一帯の鎮守でした。神社は現在の一色町にありましたが、江戸時代の慶長の町割りの時ここに移されました。
Img_8482c 境内には、道標があります。元は、新町北端の東海道筋にあったのですImg_8487c が、戦後、現在地に移転されています。「右きやういせみち ひだりふなばみち」とあります。天保13(1842)年に建立されたもの。
Img_8497c 光徳寺の北には瑠璃山光明寺があります。西山浄土宗のお寺。開基は不明ですが、室町時代には本町付近に設立されていて、慶長の町割の時、ここに移っています。当時の正門は、東海道筋に面していたようですが、今は違いますので、ちょっと分かりにくくなっています。
Img_8495c あとで調べて分かったのですが(こういうことが多い!)、桑名町初代町長の町田武須計(まちだぶすけ)の墓があります。元桑名藩士、昌平黌に学び、戊辰戦争では神風隊の隊長を務めました。明治になって、桑名の権大参事兼軍務総監督となり、西南戦争にも参加しています。立見尚文は実弟。
Img_8488c こちらは、教宗寺。浄土真宗本願寺派のお寺。江戸時代には、萱町にある法盛寺の塔頭の1つとして、その境内にあったのですが、昭和39(1964)年にここへ移っています。ちなみに、法盛寺はもとは三河国矢矧(やはぎ、現同崎市)にあり、室町時代後期に戦乱を避けて桑名三崎に移って来ています。長島一向一揆では本願寺の基幹寺院として重要な位置を占めました。この戦乱ののち法盛寺と改称、慶長の町割りで現在地へ移りました。
Img_8520c 教宗寺から150mほど行くと、吉津屋見附跡にさしかかります。ここには今Img_8518c でも枡形が残っています。写真では表現しにくいので、まずは左の案内板を撮影したものをご覧ください。ここには吉津屋門と番所がありました。江戸時代の初めは吉津屋町に属していましたが、その後「鍛冶町」として独立したため、「鍛冶町門」あるいは「七つ屋門(小字名に由来)」といいました。
Img_8514c1  案内図でお分かりのように、四角形の三辺を回る枡形になっています。現在でも道路は使われています。左の写真で右端に写っているのが案内板など。この角を右手奥に進み(手前側が北方向、七里の渡し方面)、ぐるっと回って、左手奥に見えている「ほねつぎ」のところに来ます(赤いラインを入れました)。石取祭の祭車もここを通ります。
Img_8510c  なお、東海道の上り方向では、この吉津屋見附跡の手前に「七ツ屋橋」がありました。西から来て鍛冶町に入ってすぐのところで、旧東海道の一部分が広くなっています。ここが、新町と鍜冶町の境をなす水堀に架けられた七ツ屋橋西詰に当たると思われます。「くわな史跡めぐり」によれば、横幅3間3寸、長さ4間1尺2寸の石橋が架かっていたといいます。
Img_7757c  また、この七ツ屋橋の近く、東海道北側には多度大社の常夜燈がありました。天保4(1833)年5月の建立。しかし自動車交通の邪魔になるため、戦後、七里の渡し跡に移築されました。左の写真は、七里の渡し跡。常夜灯の写真は、7月7日に撮影したものに変更しました。
Img_8544c 京町見附跡。京町門と番所がありました。桑名には、見附は、ここまで見Img_8543c てきたように3ヶ所あったのです(吉津屋見附跡、七曲見附跡とここ)。左の写真は、現在は京町公園になっていますがここに郷方役所(のちの市役所)がありました。門の西側は外郭堀で橋はなく、東海道はここで南に曲がり、さらに東、南と曲がる枡形になっていました。現在は、枡形はありません。
 東海道は、さらにこの先、七里の渡し跡まで800mほど続きます。しかし、この日(7/3)は京町見附跡でちょうど正午でしたので、ここまでとします。京町見附跡から七里の渡し跡については、ほぼ散歩コースでもありますので、また機会を改めて書くことにします。

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