« 5月らしい陽気……花菖蒲はボチボチ | トップページ | ハクセキレイのヒナ登場……アジサイも »

2018年5月20日 (日)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社

Img_0745c

 近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(4/28)180428kintetsuhikingtado2 のその3です。その2では、多度大社を見て回りました。その後、多度大社前から東へ、またもや上り坂を経て、養老鉄道を越えたところで地道、竹藪の中を通り抜けてきました。前方に林というか、森が見えてきました。
Img_0748c コースに含まれてはいませんが、神社でしたのでここは立ち寄らざるを得まImg_0750c せん(微笑)。「村社 舟着社」という社名標が立っています。「舟着社」というからには、このあたりに舟が着いたということ。これは是非ともお参りし、見てこなくてはなりません。
Img_0752c 社伝によれば、多度神社別宮の一目連大神が度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。御祭神は、表筒男神(ウワツツノオノミコト)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山の神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、底筒男神(そこつつのおのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと;多度大社の御祭神、天照大神の子)、気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。表筒男神、中筒男神、底筒男神は住吉大社に祀られている御三神、住吉神(すみのえのかみ)。気吹戸主命とは、初めて知った神様。
Img_0754c 尋ねたとき、ちょうど氏子の方がお祭りの準備に来ていらっしゃり、説明をしてくださっただけでなく、本殿の方まで案内をしてくださいました。こういう出会いは、嬉しいものです。
Img_0763c 境内の一隅には、この石碑。「奉献 船置神社」と刻まれています。碑陰を確認するのを忘れてしまいましたが、社伝を裏付けるような石碑と思います。
Img_0765c 帰り際に、最初に見た社名標の碑陰を確認したところ、「国幣大社 御旅所」とありました。寄進したのは、水野英三郎というかた。国幣大社は、多度大社ですから、多度大社の御旅所ということ。5月5日の多度大社神輿渡御の折りには三基の神輿が奉安されるそうです。ちなみに、この記事を書くのにあれこれ調べていたら、日本武尊が東征において、この地から尾張国に向けて船を出したことにちなむという話もあるようです(こちら)。いやぁ、ここは立ち寄ってよかったと思います。このあたりは多度町肱江。肱江川を越え、さらに1㎞ほど進みます。
Img_0798c 美濃街道に面して野志里(のじり)神社があります。延喜式に名を列ねる古社。ここは、今回のハイImg_0801c キングで是非とも訪ねたかったところ。垂仁天皇の御代の創祀と伝えています。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるとこなのです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。
Img_0803c 想像していたよりも、質素なお社でした。しかし、荘厳というか、由緒があることを十分に感じさせる雰囲気です。主祭神は、当然ながら、天照大神。相殿神は、たくさんおられます。建御雷神(タケミカヅチノカミ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、経津主神(フツヌシノカミ)、姫神(不明)、大山咋神(オオヤマクイノカミ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、事解之男神(コトサカノオノカミ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)、衝立久那戸神(ツキタテフナドノカミ)、火之迦具土神(カグツチノカミ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大山津見神(オオヤマツミノカミ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)、白山比売神(しらやまひめのかみ)です。すでにおなじみの神様も多いのですが、ここで初めて名を目にする神様も多数。
Img_0796c 神社から美濃街道を挟んで東側の社地には、「伊勢神宮御旧蹟野代Img_0793c の宮」という石碑が建っています。一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたという話があるそうです。
Img_0791c 同じく東側の社地には、この「天照大神御𦾔跡式内野志里神社」という石碑もあります。明治Img_0835c 26(1893)年10月に建てられています。揮毫は、三重県知事・成川尚義(なりかわなおよし)。この石碑の上部にある「天照大神」の文字、よくよく見ると普通とは異なっています。「照」という文字のれっか(連火)の部分が「火」になっています。「照」の旧字だそうです。
Img_0820c 野志里神社の社殿の北西には、「千人塚」があります。これは、長島一Img_0822c 向一揆の時、法泉寺の空明は、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明は戦死者の首を集めて,篤く葬ったのが、この千人塚だそうです。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたそうです。
Img_0826c 野志里神社の境内には、まだ見るべきものがあります。左は、由緒を書Img_0830c いた石碑。大正13(1924)年3月に有志の方が建之したと碑陰にはありました。この記事の6つめのパラグラフに書いたような内容が刻まれています。右は、社務所の前に置かれていた「奉力石」。「大正ロマンの石」という副題があり、重さは36貫(150㎏)だそうです。「大正初期此石を肩迄上げた力自慢の面々」として、前野三エ門、前野与三郎他4名の方々のお名前が説明板に記されていました。
Img_0841c ところで、この野志里神社が面しているのは、旧・美濃街道。桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道です。桑名市川口町を起点とし桑名市多度町を通り岐阜県へと続く街道で、養老鉄道とほぼ平行して通っています。わが家近くの三崎見附を通っているのも、この美濃街道。神社で案内して下さっていた「のしろおたから発見隊」の方の説明によれば、関ヶ原の戦の時、ここを薩摩藩兵が通り、そのため、野志里神社の境内地が二分されてしまい、現在のようになったということでした。
Img_0844c 野志里神社を参拝し、見学を終えたのはもう12時少し前。この辺でスタImg_0845c ートからは6㎞半くらい。さらに南に、美濃街道をたどります。神社からすぐのところには、「前野先生頌徳碑」がありましたが、詳細は不明。碑陰を見てきませんでしたし、ネットでも情報は出て来ません。
Img_0848c この頌徳碑のすぐ目の前にはこのような道標がありました。「御衣野員辨道」とあります。御衣野は多度町内の地名で、下野代や下深谷の西あたりを指します。員辨(員弁;いなべ)は、現在の北勢町員弁。その3は、ここまでとします。ほぼ6.5㎞の地点。その4では、お寺の話が続きます。次に訪れた徳蓮寺は、ナマズの絵馬がたくさん奉納されていますし、秋篠宮殿下もいらっしゃったところです。

|

« 5月らしい陽気……花菖蒲はボチボチ | トップページ | ハクセキレイのヒナ登場……アジサイも »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

散歩」カテゴリの記事

神社」カテゴリの記事

寺院」カテゴリの記事

歴史散歩」カテゴリの記事

近鉄ハイキング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 5月らしい陽気……花菖蒲はボチボチ | トップページ | ハクセキレイのヒナ登場……アジサイも »