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2018年4月24日 (火)

20180414 JRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」(その2)……太夫の八幡社と、走井山公園

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 太夫の大楠のすぐ東に八幡社があります。勝手に立ち寄り(笑)。こちらにある西桑名神社の説明Img_9130c を見ますと、元は太夫村八幡社であったと思われます。この八幡社は、明治41(1908)年10月に西桑名神社に合祀され、合祀した新しい神社を南大山田神社といったようです。その後、第二次大戦後に分祀されたのではないかと思いますが(大貝須あたりの神社でそういう例をたくさん見ました)、ネット検索では情報が出て来ませんし、神社検索(三重)にもリストアップされていません。社名標には、「南大山田神社」とあり、詳細は不明。由緒書きもありません。
Img_9132c こちらがお社。秋葉神社などによくあるようなタイプ。八幡社ですから、御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)、すなわち応神天皇です。
Img_9140c 境内、拝殿の北東側には、「八天宮」と刻まれた石柱がありImg_9141c ます。かなり古びていますし、傾いていました。「八天宮」は、火伏せの神のはず。こちらの説明では、桑員地方で特に信仰が多いそうです。それは、江戸時代・文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされたからです。要するに、防火に気をつけるよう八天宮を祭ったということでしょう。それにしても、この石柱だけというのは、どういうことでしょう? お社があった名残か何かでしょうか?
Img_9137c 境内には、もう一つ興味深いものが。それは、「両宮遙拝所」と刻まれた、Img_9135c 古びた石碑。この向きからして、両宮は、たぶん間違いなく伊勢の内宮と外宮。碑陰には、「文政九年丙戌正月十五日 加藤源太夫至(?)吉」とあるように読めます。文政9年は、1826年。「加藤源太夫」というのは、伊勢大神楽の社家の一つで、平成に廃業したところと同じ名前。何か、関連がありそうな気がします。リンク先のWikipediaの説明に出て来ます(廃業した社家のところ)。謎は解明できませんが、なかなか面白い神社でした。
Img_9142c 大きくコースを外れたのではありません。すぐに戻り、神楽町という、何やImg_9150c_2 ら由緒ありげな名前の住宅街を抜けて、桑名市上野へ。上野浄水場の南に出ます。ここからは、南の方がよく見えます。右の写真は、中部電力川越火力発電所を眺めたもの。
Img_9156c あいにくの曇天で眺望はイマイチでしたが、場所と方角を選べば、ナガシマスパーランドも見えます(左の写真)。眼下に目を転ずると、三岐鉄道北勢線のナロートレインが、ガタンゴトンと吊りかけモーターの音を響かせて、懸命に走っていくのも見えます(写真はありません)。
Img_9161c こちらが、桑名市の上野浄水場。当然、立ち入り禁止。ただ、ここの構内Img_9159c には、立派なソメイヨシノの木があります。このウォーキングは、4月14日でしたので、いずれにしても桜の季節には遅いのですが、満開ですとそれは見事です。
Img_9198c 浄水場の東に隣接して、走井山公園があります。矢田城の跡で、伊勢湾Img_9195c まで見通しがききます。ソメイヨシノが115本あるほか、シダレザクラなどもあって、桜の名所。公園内には殉国碑や、お菊稲荷神社、庚申塔を集めたところなどがあり、ここもある種のワンダーランド(微笑)。東隣には、走井山勧学寺があります。桜はわずかにシダレザクラが咲いていました。
 矢田城は、天正年間(1573~1592年)に毛利家の家臣・矢田俊行によって築かれたとされます。その後、永禄年間(1558~1570年)に滝川一益によって攻められ落城しました。矢田城は滝川一益に与えられ、長島一向一揆攻略の最前線基地となっています。天正2(1574)年、一益が長島城へ移ると、家臣の杉山十左衛門・野呂孫右衛門が入ったのですが、その後廃城されました。江戸時代、桑名藩主松平定綱により、城跡に勧学寺が建てられています。現在、明確な遺構は残っていません。
Img_9164c まずは、殉国碑。桑名市遺族会が戦没者2,158柱の霊を祀るために、元は昭和28(1953)年に建てたようです。その後、昭和38(1963)年、平成27(2015)年にそれぞれ、祀られた方々のお名前が分かるように直されてきています。現在は、殉国碑の両側に銘記されています。
Img_9206c こちらには庚申塔を集めたところがあります。この公園のやや北東に愛Img_9204c 宕山があり、戦国時代、矢田氏によって愛宕山城という城館が築かれていました。江戸時代になって、養像院という寺が設けられています。養像院は明治初頭に廃され、呑景楼という料理屋がつくられました。庚申塔は、明治以降に集められたようです。詳しいことは分からないそうです。ほとんどの庚申塔は倒れていたそうですが、移設に際して復元されました。愛宕山城は、矢田市郎左衛門の居城といいます。 矢田城の矢田氏と同族と思われるが関係は不明。城跡は、現在は住宅地として整地され何も残っていません。
Img_9171c 庚申塔は、別のところにも3基があります。庚申の夜に眠ると命が縮まImg_9178c り、眠らずに身を慎むと災難が除かれるとい道教の教えによって、眠らずに語り明かし、主食の宴を催す「庚申待」が行われるようになったといいます。室町時代末ごろからは、こうした庚申塔(庚申塚)が建てられ始め、桑名でもここ走井山や愛宕山にたくさんあったといいます。
Img_9208c 走井山公園にはこれまで何度も行っているのですが、これには気づきまImg_9209c せんでした。北側の公園入り口の近くにありました。「輜重兵 小川久治郎之碑」です。「輜重兵(しちょうへい)」とは、または輜重兵科(しちょうへいか)。兵站を主に担当する日本陸軍の後方支援兵科の一種だそうです。 碑の右側には、「明治廿区年三月廿一日」とあります(「廿」としたところは、「卅」かも知れません)。もっと驚いたのは、碑の左側にある名前でした(右の写真)。ここには、「陸軍少将 正五位 勲三等 功三級 男爵 立見尚文 謹書」とあったのです。立見尚文は、旧・桑名藩士。第8師団(青森県弘前市)の師団長でした。日露戦争黒溝台会戦で活躍し、大きな戦果をあげています。小川久治郎については、よく分かりませんが、立見尚文が関わっているとすれば、よほどの人物か、立見と関係の深かった人物と思われます。
Img_9181c さて、ここからが面白いところであり、よく分からないことが多いところでもあります。走井山公園の南西隅に「お菊稲荷神社」があるというのは、地図にも載っています。公園の南西隅に行くと、お菊稲荷神社と並んで、「白龍龍神」という神社もあります。
Img_9188c まずは、お菊稲荷神社。上左の写真の鳥居をくぐって登っていくと、左のImg_9190c 写真のようになっています。この鳥居の奥にある石碑には、右の写真のように、「お菊稲荷之霊」と刻まれています。これには参りました。わずかな経験しかありませんが、「稲荷之霊」というのは、これまでに見たことがありません。ネットで検索してみると、こちらに「於菊稲荷神社」というところのサイトがありました。群馬県高崎市にある神社です。そこの記述によれば、江戸時代 新町に於菊という心優しく美しい娘がおり、いつも稲荷神社で近所の子どもたちの面倒をみており、皆に慕われていたといいます。しかし、ある日、重い病にかかり住む所を失ったため、子ども達の親が不憫に思い、稲荷神社の側に小屋を建て交代で看病したといいます。3年の月日が流れたある夜、稲荷の神様が夢枕に現れ、人々のために尽くすようにと於菊に告げたそうです。このお告げと同時に病は全快し、稲荷神社の巫女になったということです。何となく、これに関わる話かとは思うのですが、詳細は不明といわざるを得ません。
Img_9192c お菊稲荷神社の脇には、この「霊狐廟」があります。何となくあまり気持Img_9193c ちの良いところではなかったのですが、見てきました。ここにも、「お菊稲荷の霊」が祀られています。「稲荷の霊」というのは、初めて見ますし、どうも意味が分かりません。「狐が憑く」とか「狐の祟り」というのは見聞しますが……。いつどういう経緯で建てられたお稲荷さんか、よく分かりませんし、ネットで調べても情報が出て来ません。何かご存じの方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
 もう一つの白龍竜神。上の写真(お菊稲荷神社と並んでいるもの)で、側に立っている説明板は、庚申塔のもの。白龍竜神も、よく分かりません。謎は深まるばかり。
 その1で、「本日はここまで」と書きましたが、調子に乗って、その2も書いてしまいました。しかしさすがに、ここで力尽きました(苦笑)。その3は、明日以降(これは確実……笑)。JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに行きますと、いろいろと新しいものごとを見聞し、それについて調べ、まさに「あみま倶楽部」の理念通りなのですが(あるく、みる、まなぶであります)、謎は謎を呼ぶというか、一つ分かるとさらにたくさん分からないことが出来します。

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コメント

こころんさん、おはようございます。

ここを遊び場にしておられたとは羨ましい。
体がけっこう鍛えられたのではないでしょうか。

忠魂碑は記事にも少し書きましたが、建立当初は駐留していたアメリカ軍にはばかって、名簿が内部に収納されていたのですが、次第に公にするようになり、現在は、こころんさんがおっしゃる屏風のようなところ(石造)に刻まれています。

お稲荷さんは、普通のお稲荷さんとは違った雰囲気を醸し出しています。
やはり「お菊稲荷之霊」とあるのは、何か意味があるのかも知れません。
お父様は、何かご存じではいらっしゃらないでしょうか。

投稿: mamekichi | 2018年4月28日 (土) 08時01分

子供の頃は走井山は遊び場でしたが
その頃に比べてだいぶ変わってます。
忠霊碑の後ろの左右に屏風のような物は無かった記憶ですし
稲荷さんの方も整備された感じというか。
でも、稲荷さんの所は近寄り難い雰囲気ですよね。
稲荷さんに怒られるかもしれませんが
子供の頃は近づかないようにしてました^^;

投稿: こころん | 2018年4月27日 (金) 20時37分

おユキさん、こんばんは。

「お稲荷さんの依り代を務めたお菊さんの霊」といえば、それなりに納得できそうです。

ただ、ネット検索で出て来た「於菊稲荷神社」と関連性があるのかないのかは、不明のままです。
「於菊稲荷神社」があるのは、群馬県高崎ですし。

桑名市史のようなきちんとした本なども調べた方がよい気もするのですが、なかなかそこまでは手が回りません。
というか、そこまでいくといよいよ「病膏肓に入る」になりそうな気がしています(苦笑)。

投稿: mamekichi | 2018年4月25日 (水) 20時30分

mamekichi先生、こんにちは。

「稲荷の霊」なのですが、私が知っているということではなくて恐縮ですが、記事にある通りに解釈すれば、
「お菊(人)の霊」で良いのではないかと思います。

人が神様として祀られるのは珍しいことではありませんし、稲荷神のお告げで病が全快し、人々を助けるように託されたということから、お菊さんは稲荷神の依り代という扱いではないでしょうか。

「お稲荷さんの霊」と思うと不思議ですが、「お稲荷さんの依り代を務めたお菊さんの霊」と思えば、納得できるかと思います。

知りませんケド(笑)。

※お稲荷さま、失礼な発言があったらご容赦くださいm(__)m。

投稿: おユキ | 2018年4月25日 (水) 17時53分

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