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2018年3月21日 (水)

近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ

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 “近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ”もその3になりました。その2では、鈴鹿市伝統産業会館までやって来ましたが、左の地図でお分かりの通り、スタートの鼓ヶ浦駅からぐるっと回ってきた感じで、あまり進んではいません。
Img_4389c 伝統産業会館からじきに旧・伊勢街道に出ます。1kmほど伊勢街道を上っImg_4399c ていきます。街道沿いには、連子格子がある古い町屋もけっこうたくさん残っています。道幅は昔のままと思われる狭いところ(クルマのすれ違いが難しいくらい)もあれば、拡幅されたところもあります。
Img_4393c 途中、魚要(うおよう)さんという旅館の前で、ミツマタと、たぶんサクラが咲Img_4392c いているのを見つけました。このミツマタ、枝も太く、花も立派。桜の方は、何でしょう? ここで一緒になった女性3人組の方とあれこれ話したものの、よく分かりませんでした。わからないこと、知らないことばかりです。
Img_4405c しばらく行くと、住所が「寺家(じけ)」から「白子(しろこ)」に変わります。白Img_4403c_2 子2丁目20番地で、東側に空き地があり、「同心屋敷跡」の看板が立っていました。時代劇にも出てくるあの「同心」です。奉行(代官)-与力の下に就く、下級役人。伊勢街道を挟んで東西両側に5軒ずつ建っていました。
20180317kintetsuhiking2_2  さて、ここからは、こちらの地図をご覧いただきます。「同心屋敷跡」は、左下に青い矢印をつけたあたりです。次に見た「道標」のところでいったん旧・伊勢街道を離れます。
Img_4421c さらに250mほど行ったところに道標があります。伊勢街道はここで東へImg_4419c 曲がります。このあたりの道は曲がり角が多いため、ここの和田さんの先祖が昔道標を建てました。しかし、それは再三再四倒されたそうで、昭和12(1937)年3月に再び、和田甚一郎さんが現在も残るこの道標を建てています。当時は高さ3m。ところが昭和30年代にまたこれが倒されたので、今のように建て直したそうです(現在の高さは2mあまり)。
Img_4424c 道標の西側には「👉 さんぐう道」、北側には「👈 神戸四日市道」とそれぞれ刻まれています。ここで、魚要さんのところで出会った女性3人組と再度遭遇。その中のお一人が、「こうべ? よっかいち? どういうこと?」と首を捻っておられました。実は、鈴鹿市内にも「神戸」というところがあるのですが、これは「かんべ」と読みます。「かんべじゃないですか」と申し上げたら、「あっ、そうそう」と。実は、この女性、鈴鹿市内にお住まいなのに、ボケをかまされたようです(笑)。周りにいた10にくらいの方と大爆笑! 忘れられないエピソードになりました。
Img_4430c それはさておき、道には迷わず無事に右折して、東南へ進みます。曲がImg_4429c ったところにあるのは、山中山唯信寺。浄土真宗高田派のお寺。ネット検索ではこれということはわかりませんでした。
Img_4432c 唯信寺から100mも行かないところに久留真(くるま)神社があります。延喜式内社、旧・県社。創祀年代は不詳。大己貴尊(オオナ

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ムチノミコト)と須世理姫命(スセリヒメノミコト)の2柱を、通称「伊勢の森」という神奈備(神域)に「福徳さん」として奉斎していました。大己貴尊は大国主命の別名。素戔嗚尊の子(またはその6世とも)で、出雲大社の祭神。須世理姫命は素戔嗚尊の娘で、大国主命の妻(なんだかややこしい)。
Img_4434c_2 第21代雄略天皇(5世紀後半に在位したとされる)の御代に呉の国の漢織、呉織、衣縫兄姫、弟姫などが来朝し、勅命によって伊勢国の民に紡績や衣縫など文明技術を伝授したといいます。その功績が実に偉大であったため、永遠にこれを称えようと、漢織姫命(アヤハトリヒメノミコト)を当社に合祀して、福徳の女神と仰ぎ奉ったと伝わっています。その昔、このあたりの地名を「栗真荘」と呼び、栗真荘で祀る福徳の(機織りの)車の女神というのが社号の由来になっているといいます。

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 元は白子小学校の東に福徳天王社としてありましたが、寛永11((1634)年、そこが白子代官所となり、現在地に移転しています。江戸時代に勝手明神との間に式内の本社を争う訴訟がありましたが、この移転の際、勝手明神を合祀しています。その後、文政4(1821)年12月に「福徳之宮久留真神社」と改称しました。
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 第30代敏達(びだつ)天皇(538~585年、在位は572~585年)の御代(580年頃)に、漢織姫命を淡路国(淡島)へ分祀し、現在も淡路市久留麻町に別宮伊勢久留麻神社として鎮座しているそうで、それがこの看板に書かれていました。ただし、この別宮の方は、現在は御祭神は大日孁貴尊 (オオヒルメノムチ;天照大神の異称)となっていました。
Img_4445c ご神木にもいわれがあります。大已貴尊と須世理姫尊の2柱の神様を福徳さんと称え奉っていた頃には、そのまわりに樹齢一千年以上の「福徳の松」が天に聳えていたといいます。寛永11(1634)年の御遷座の際に、初代、追って二代目の福徳の松が植樹され現在に至ったと神社検索(三重)のサイトには説明がありました。現在のご神木は、三代目。
Img_4472c ここには、境内社が4社あります。まず、拝殿の北西に四柱神社。御祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、事代主神(コトシロヌシノカミ;大国主命の子)、宇迦神(ウカノカミ;穀物の神で、お稲荷さんとして広く信仰されている)、大山祇神(オオヤマツカミ;山の神)の4柱。
Img_4451c 拝殿の西(裏)に3社。拝殿に近いところから、稲荷神社。鳥居には、「稲Img_4452c 荷大明神」とあります。お社はまだ新しい感じでした。
Img_4455c 次いで、石神神社。ここに祀られているのも、大山祇神(オオヤマツカミ)Img_4456c で、いわゆる山の神様。
Img_4459c もう1社は、護国神社。御祭神は、護国の英霊となっていました。護国神Img_4461c 社の西には、「忠勇」碑。明治39(1906)年8月建立ですから、日清、日露の戦争の後。三重県遺族会のリストにはありませんでした。裏側に回りたかったものの、よその土地で入れませんでした。
Img_4469c 神社西側の鳥居脇には、古い社名標がありました。表側Img_4465c は、木陰になってしまっていることもあり、全体を確認するのは難しい状況。「延喜式内 久留真神社」とあるようです。碑陰は、よく分かります。ここには、「文政四辛巳年十二月吉日」と刻まれていました。1821年。上述のように、このとき、「福徳之宮久留真神社」と改称しています。
Img_4474c 最後に狛犬を確認して、久留真神社は終了です。狛犬は、子取り・玉取り様式ではありません。また、比佐豆知神社もそうでImg_4475c したが、ここにも、神宮遙拝所などはありませんでした。
Img_4481c 久留真神社から300mほど歩くと、再び伊勢街道に戻ります。次の立ち寄Dscn6388c りポイントは、街道沿いにある小原木本舗大徳屋長久さん。鈴鹿でよく知られた「小原木(おはらぎ)」という和菓子の元祖のお店。大徳屋長久(屋号)の竹口家は、元々、白子の廻船問屋。当時の白子は、紀州徳川家の領地で代官所近くには、紀州藩の御浜御殿もありました。竹口家は藩御用商人として特に目をかけられ、紀州候の上洛に同行することもあったそうです。京都の八瀬小原に出かけた紀州侯は、八瀬小原を訪れた記念に菓子を作るよう、傍らにいた竹口久兵衛に命じてできたのが、この「小原木」。「木」は、不断桜を意味するといいます。
Img_4852c 久兵衛が菓子作りを始めたのが享保年間(1716~1735)でしたから、こDscn6397c ちらでは久兵衛を菓子屋初代とし、その創業年を享保元年(1716)としているのだそうです。現在の当主は、15代目。小生が大学院を修了して最初の職場が鈴鹿市にあり、「小原木」は休憩時間に何度もいただいた記憶がある、懐かしいお菓子です。今回は是非ともゲットしようと思ってきました。小原木を無事購入した上に、かりんとう饅頭も美味しそうでしたので、買ってしまいました(微笑)。
Img_4487c 大徳屋長久さんのあとは、3軒連続して「まちかど博物館」ツアー。まずは「語らい館よこた」。明治18(1885)年に造られた町屋づくりの家を、間取りを変えずにリフォームし、天井が低い、レトロなミニギャラリーになっています。「横田材木店」という看板が出ているように、本業は木材、住宅用建材販売。館内には、ひな人形や、つるしびなが飾られ、また、古道具、木モノ、着物、古布などレトロ雑貨も売られていました。
Img_4495c 次のまちかど博物館に向かって歩いて行くと、東町児童公園に「旧河芸Img_4498c 郡役所跡」の石柱と看板が見えました。明治になって県政がしかれて以来、悟真寺の薬師堂が仮事務所として使われていましたが、明治26(1893)年4月、地元町民が土地を提供し、資金を負担して河芸郡役所の新庁舎が建てられたのがここです。郡制が廃止される大正12(1923)年4月まで郡役所として使われ、その後は残務整理のため団体事務所の役割を果たします。整理完了後は、家事裁判所が置かれていましたが、昭和28(1953)年7月、火災で建物は焼失。現在は、東町児童公園になっています。
Img_4503c 東町児童公園や鈴鹿白子本町郵便局の北の伊勢街道は、このように枡形(といってよいのか確信がありませんが)になっています。白子は城下町ではありませんが、紀州藩領で代官所もありましたから、街道もこのようになっているのかという気がします。
Img_4507c こちらは「伊達家 油屋忠兵衛」。長らく無住であった古民家「伊達家 油屋忠兵衛家」を地元の有志が清掃し、2013年秋から地域のイベントなどに活用しています。油屋忠兵衛家は、仙台の伊達一族を先祖に持ち、油屋を営んでいた歴史ある町屋です。築100年以上。廻船問屋も営んでいたといいます。明治時代には伊勢湾に迷い込んだ鯨を捕獲し、その耳石や髭を江島若宮八幡神社に奉納したという話も伝わっています。
Img_4514c 油屋忠兵衛から街道を少し上った、左手(西側)に鈴鹿市白子コミュニテImg_4517c ィセンターがあり、その前に「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」という看板がありました。明治になって私有財産権が認められ、土地等の登記に必要な行政機関として各地に置かれた役所が治安裁判所です。白子には、明治21(1888)年10月に置かれました。その後、明治25(1892)年に役所が新築され、名称も登記所となり、さらにまた、法務局に変わっています。現在、津地方法務局鈴鹿出張所は、市内神戸にあります。
Img_4523c コミュニティセンターのほぼ斜向かいの清水屋さんの店頭に「江島陣屋Img_4521c 跡」の看板がひっそりと立っていました。このあたり、住所は江島本町に入っています。江戸時代初期(正保年間、1644~1648年)まで江島村は天領でしたが、その後、紀州藩旗本の領地となり、享保の頃(1716~1736年)には小笠原肥前守の知行地になり、ここに陣屋を建てたといいます。明治2(1869)年3月14日には明治天皇が伊勢神宮参拝(3月12日)の帰路、この陣屋で小休止なさったとありました。
 江島陣屋跡で時刻は、11時35分頃。歩いてきた距離は、5km半あまり。まだ先がありますが、今日はここまで。次は、江島神社社名の標柱から。ここで、次の目的地がよく分からず、ウロウロ。ガソリンスタンドで聞いて行ったという話から。

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