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2018年2月20日 (火)

20180217酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」(その2)……大師堂と、椿岸神社あれこれ

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 2月17日の酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」のその2です。昨日のその1では、東名阪自動車道をくぐるところまで書きました。東名阪自動車道を過ぎてすぐに大師堂があります。今日は、ここから。
Img_9519c こちらがその大師堂。ご本尊は、弘法大師坐像(高さ30cmの石像)。弘法大師として知られる空海は、平安初期(弘仁12(821)年)に、現在の香川県にある「満濃池」をはじめとして、各地に灌漑用溜池をつくり、水不足に悩む農民を救っています。これに因み、あちこちの溜池や掘り抜き井戸などの守り仏として「弘法大師像」が祀られています。この大師堂も同様です。
Img_9522c 江戸時代末期、一生吹山山麓の開発が行われ、山頂の北西にあった窪地に雨水を溜め、「雨池」をつくり、水路を通すなどして周囲を灌漑しました。この大師堂のあたりへは、川を利用するとともに、掘り抜き井戸を用いて給水しています。ここは、地形上も、地下水が集まるところで、豊富な清水が湧き出したといいます。説明板には、この水が永遠に絶えん事を祈って、昭和の初め頃、徳志(篤志か?)の人が弘法大師を祀り、今に受け継がれているとあります。こちらに、桜郷土史研究会の詳しい説明があります。
 大師堂を通った頃は、ちょうど雨・霰・風が強く、見ていく方はほとんどありませんでした。私も急いだため、大師堂の西にある「掘り抜き井戸跡」を見てくるのを失念。慌てるといけませんが、こんな天候ではねぇ……。
Img_9528c 大師堂から北西に向かうと、「矢合川」を渡ります。昨日の「その1」で触Img_9530c れた一生吹山の歴史に、天文8(1539)年、時の佐倉城主・小林備前守重則が、鈴鹿郡峯大和守盛定に攻められたとき、この矢合川北の殿腹で自刃したということがありましたが、その矢合川(元は、生水川(しょうずがわ)といったといいます)です。左の写真は、下流側、右は上流側。
Img_9537c 大師堂から1㎞ほどで、椿岸神社(つばきぎしじんじゃ)に到着。まだ雨がImg_9545c_2 降っていました。桜郷土史研究会のサイトによれば、創立年不詳ですが、社伝では、天平12(740)年頃、現・桜町西区字椿尾に創建とあるそうです。「延喜式(延長5 (927) 年完成)」にも椿岸神社の名が記されているといいます。
Img_9543c 神社検索(三重)によれば、御祭神は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の他、豊受姫命大御神(トヨウケビメ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、豊臣秀吉、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、木花之開耶姫命(コノハナノサクヤビメノミコト)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、品陀和気命(ホンダワケノミコト)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコ)、八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)、八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)、大山祇命(オオヤマツミノカミ)、猿田毘古神(サルタビコノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ)となっています。なんだかややこしいというか、賑やかというか。
Img_9551c 桜郷土史研究会のサイトによれば、「『明治17年調伊勢國三重郡智積村地誌』には次のように記されています。祭神は、猿田彦大神、天受賣受命(天鈿女命)、天照大御神の三座を祭る。」ということです。その後明治政府の神社合祀により、次の神社が、椿岸神社に合祀されています:須佐社(智積字御所垣内)、浅間社(智積字一生吹)、桜神社(桜村字南垣内)、桜神社(桜村字武佐)と同境内社・浅間社、幸田神社(桜村字南垣内)、桜岡神社(桜村字山上垣内)と同境内社・稲荷社、稲荷社(桜村字砂子谷)、大谷神社(桜村字大谷)、稚瑳良神社(わかさくらじんじゃ。桜村字猪之峡)、そのほか桜地区内各地の「山神」10体。これだけの神社が合祀されたがために上記のように、多数の相殿神がおられるということかと思います。第2次大戦終了後などに、分祀された神社もいくつかあります。桜郷土史研究会のサイトのここに詳しく書かれています。写真は、椿岸神社の拝殿。
Img_9554c 境内社を見る前に、拝殿前の狛犬を確認します。向かって左が「子取Img_9552c り」、右が「玉取り」となっていました。このタイプ、けっこうよく見かけます。
Img_9569c こちらは、猿田彦社。境内の東側のエリアにあります。鳥居にある神額は、「宮司 Img_9577c 川島敏孝 謹書」とあります。お社は、右の写真の通り。北に向かって拝むように建っていました。猿田彦は、天孫降臨のとき、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
Img_9574c 猿田彦社の脇には、「神宮遙拝所」の石柱が立てられていました。ここで、例によって、うっかり(苦笑)。裏に回って、いつ建てられたのかを確認することを忘れました。神宮遥拝所は江戸時代に建てられたこともあるようですが、今に残っているもののほとんどは、昭和12(1937)年、近衛内閣の時代に始まった「国民精神総動員」運動の最中に建てられたものが多いといいます。
Img_9580c  椿岸神社の拝殿の東、猿田彦社の北には、椿岸稲荷神

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社があります。慶長10(1605)年8月に、京都の伏見稲荷神社の祭神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請して、字大門(あざだいもん;現・桜町南公民館の南)に「幸田神社」として創建されました。そこに至る経緯については、右の説明板にもありますし、こちらにもあります。
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 明治政府の一村一社の方針にしたがって、幸田神社は、明治42(1909)年に椿岸神社に合祀されました。しかし、昔を懐かしむ人々の声によって、昭和35(1960)年に、幸田神社は椿岸稲荷神社と名を変えて椿岸神社本殿の東側に再建されています。
Img_9585c この椿岸稲荷神社の参道の東には、「皇居遙拝所」の石柱が立っています。裏Img_9590c に回って確認すると、「皇紀二千六百年紀念 昭和十六年菊月巳庚會建之」とあります。「皇紀」は、日本書紀の記述をもとに、神武天皇即位の年(西暦紀元前660年にあたる)を元年とする紀元です。亡父から、この「皇紀二千六百年」という事はよく聞かされた記憶があります。これを機会に、当時の日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また、国民生活の窮乏や疲弊感を晴らそうとして、大規模な行事を展開したようです(こちらを参照)。ちなみに、皇居遙拝所は、昨年12月22日に行った、近鉄ハイキングの「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」で、南伊賀留我神社にもあるのを確認しています(近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
 椿岸神社、まだまだ他にもいろいろとありましたが、長くなりますので、今日は取り敢えず、ここまで。この記事に追記するか、その3として続きを書くか、いずれかにします。

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