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2018年1月18日 (木)

勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その1)一身田寺内町に入り、聖俗の結界を超えるまで

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 気を取り直して、“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本180116ishindenc 山専修寺と一身田寺内町散歩”に再度、取り組みます(笑)。スタートは、当日(1/16)にも書きましたが、近鉄名古屋線・高田本山駅。ルートは、これも1/16に載せたように、右の地図の通り。いつもように、歩いて見てきた順に沿って書いていくことにします。
Img_2950c 高田本山駅から、田園地帯や、小さな集落を抜けて、伊勢鉄道毛無川橋梁に出ると、毛無川が流れています。後でも触れますが、この毛無川は、高田本山専修寺の環濠の一部にも使われています。それにしても、最近の我が身を振り返ると、この「毛無川」という響き、なんだか気になります(苦笑)。ちなみに、この毛無川、小生がお世話になっている非常勤先の短大近くまで流れ、志登茂川に合流しています。
Img_2963c さて、第2岩崎病院や、一身田南公園の脇を抜けると、寺内町に入る手前に、小さな石碑があります。「山の神」さまです。近鉄のウォーキングマップや、一身田寺内町の案内マップにも載っていますが、詳細は不明。
Img_2968c 山の神を過ぎると、毛無川にかかる、朱く塗られた橋があります。常盤橋でImg_2969c す。寺内町の主な橋は、皆、この色、デザインに統一されています。この橋から北が寺内町になります。常磐橋は、伊勢方面からの入口です。毛無川は、灌漑用水路でもありましたが、町の外壕としての役割もありました。かつてはこの北岸に有力な商店の蔵が建ち並び、江戸時代の風情が残っていたといいます。
Img_2972c 常盤橋の北のたもとには、番小屋と門があり、明け六つImg_2974c に開き、暮れ六つに閉じられ、夜は人は通れなかったそうです。これによって、町の治安を守った訳です。この常盤橋のたもとの門は、黒く塗られていたということで、「黒門」と呼ばれたといいます。寺内町には、このほか、赤門、桜門の2つの門がありました。右の写真は、常盤橋から西の毛無川を見たもの。
Img_2975c 黒門跡の北、30m足らずのところに百五銀行一身田支店があります。こImg_2977c_2 の敷地の南東角に道標が立っています。道標の東側には「右 江戸みち」、南側には「左 御堂並京道」と刻まれています。
Img_3225c 裏に回って、西側には「右 さんくう道」、北側には「天保Img_3227c 八年酉九月」とありました。天保8年は、1837年。干支は丁酉(ひのととり)、大塩平八郎の乱があった年です。天保元(1830)年には、伊勢御蔭参りが大流行したそうですから、その頃、ここも旅人で賑わったかも知れません。
Img_2967c 百五銀行に面した南北の通りを「橋向(はしむかい)通り」と呼ぶそうでImg_3229c す。かつて歓楽街で、江戸時代には水茶屋が25軒もあったといいます。滝沢馬琴は、旅行記で「伊勢の古市、松阪に次いで、伊勢国で第3位の遊郭街だった」と記しています。遊郭であったという印象は持ちませんでしたが、確かに古い建物がいくつも残っていました。
Img_2979c うっかり見逃すところでしたが、この道標の脇に「高札場跡と道標」という看板がありました。それによれば、ここは、一身田寺内町では交通の要衝で、高札が建てられる場所であり、また、火の見櫓も建っていたところです。
Img_2985c まずは、ここを西に曲がります。仲之町通という商店街です(こちらに一身田の商店街の紹介があります)。和菓子屋、Img_2982c 仏壇屋など、多くの店が現役。曲がってすぐの北側には、「和菓子 京林堂」というお店があり、賑わっていました。看板に「カレー焼」とあり、気になりましたが、先を急いだので、パス(ただ、後で失敗したかと反省)。カレー焼は、小ぶりのバナナくらいの大きさをしたカレー味の回転焼きだそうです。午後から、再度ここを通ったら、女子高校生で大賑わいでした。
Img_2989c 仲之町通で見たかったのは、この「旧・村界水路」です。読んで字のごとImg_2988c く、「村の界をなした水路」です。昔の一身田村と、窪田村の境界がこの溝だったといいます。ただし、この看板、ある衣料品店の店頭にひっそりと置かれていて、これまた見逃しそうで、戻って確認したくらいです。
Img_2990c 「水路」というと、立派なものをイメージしますが、上述のように「溝」といった方が正確でした(笑)。ちなみに、万治元(1658)年に津藩二代藩主藤堂高次が娘を専修寺に輿入れさせるにあたり、この溝の西側の窪田村領地を専修寺に寄進しました。
この溝を境に、寺内町の地番は三桁と四桁に分かれるなど、今も村境であった名残が垣間見えます。
Img_3222c_2 仲之町通にも古い建物が残っています。こちらは、「鮮魚Img_3223c_2 料理 仕出し 魚松」という名前が見えます。「内田氏宅(魚松)」です。このお宅は、明治中頃に建てられ、ほとんど改造されず、古いまま現存しているそうです。
Img_3000c_2 魚松さんから100mあまり行くと、専修寺の山門の正面に出ます(南側)。このあたりは、「向拝前(こうごまえ)」と呼ばれます。「向拝(こうはい)」は、御拝 (ごはい) ともいい、社寺の堂や社殿の正面階段上にふきおろしの屋根、ひさしをつけたところで、ここで参詣者が礼拝します。かつては旅籠や店が並び賑わったところだそうです。いかにも本山の前という雰囲気を感じました。
Img_3006c_2 石畳の道を山門に向かって進むと、石橋と「釘貫門(くぎぬきもん)」があImg_3015c_2 ります。「釘貫門」は、柱を立てて並べ、横に貫を通しただけの簡単な門です。町の入り口に設けられた木戸を示すこともあるようです。現在は、この山門前の釘貫門だけが残っていますが、宝暦年間(1751~63年)の絵図には、他に3カ所の矢来(釘貫門)が描かれています。その1カ所は、1月11日の近鉄ハイキングで見てきたところです(1/13:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その3)……一身田寺内町、一御田神社、下津醤油、おぼろタオル、江戸橋常夜灯と道標そして江戸橋で「完」)。
Img_3009c_2 釘貫門は、道を挟んで東西に同型同大の2棟からなっています。両方をImg_3022c_2 つなぐ構造や、開閉装置はないものの、専修寺では釘貫門と呼ばれています。この門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北に位置し、堀に架けられた石橋と併せて「聖俗の結界」をなす役割を担っています。
Img_3020c_2 石橋は、上記のように、山内寺院と町屋とを隔てる堀にかかっています。石造の反り橋です。東側では、一部の部材が欠いており、新しい部材になっています。つくられたのは、宝暦10(1760)年3月という記録があります(松山忍明、高田史料第3巻)。
 この釘貫門を通ったことで、俗の世界から聖の世界に入りましたので、今日はここまで。

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