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2017年11月10日 (金)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編)

 昨日の記事(旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))の続きです。昨日は、安永から朝日町柿までの道中について書きました。今日は、四日市市松寺から富田まで。

Img_0173c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点を過ぎ、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐると、朝明川にかかる朝明橋。ここを渡ると、四日市市松寺に入っていきます。
Img_0183c 朝明橋を渡りきったところに、小公園があり、この看板と力石があります。Img_0184c 看板には、広重の東海道五十三次「四日市宿」や、ここを通ったというシーボルトの説明などが書かれています。力石は、この地で営まれていた茶店の主が残したもので、「二十七メ」と刻まれ、重さ27貫目(約100㎏)と考えられています。北勢地方では、神社やお寺に残っていることが多いそうですが、これは数少ない、民家の軒先にあったものといいます。
Img_0192c 朝明川の河岸段丘をおりて、松寺に入ります。朝日町内にも、「東海Img_0228c 道」 案内板が所々にありましたが、四日市市内にもあちこちにあり、助かります。御厨神明社の手前にあったもの。右は、四日市市内各所に掲げられているもの。桑名でもこういうものを整備してもらいたいところ。
Img_0196c 松寺にある御厨神明社。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのImg_0199c ある土地であったことがわかります。静かで、小さな神社。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。細い道の奥に入っていく必要がありました。
Img_0206c 蓮證寺の手前、左(東)側に、松寺の立場跡があります。江戸時代、桑名Img_0207c 宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ。この「松寺の立場跡」の看板の奥には、「輝子頌徳記念碑」がありました。
Img_0211c 松栄山蓮證(れんしょう)寺。浄土真宗本願寺派の寺。古いお寺で、400年くらい前にここにお堂があり、本堂も200年くらい前に立てられたと伝えられているようです。ご本尊は、阿弥陀如来様。
Img_0230c 蓮證寺を過ぎると、蒔田の御厨神明社と、宝性寺(ほうしょうじ)があります。参道の両側に神社とお寺の石柱が並んでいて、ちょっと不思議に思いました。先に種明かしをしてしまうと、この正面に龍王山宝性寺の本堂があり、すぐ北側に御厨神明社の本殿があったのです。
Img_0237c 龍王山宝性寺の本堂。天平12(740)年に聖武天皇の勅願により創建されたのが始まりだそうです。リンク先の市役所のサイトによれば、蒔田第一自Img_0245c 治会が所有しています。本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財です。享保4(1719)年の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11(1814)年の建立と推定されるといいます。
Img_0241c こちらは、宝性寺本堂に向かって右手(北側)にある、蒔田の御厨神明Img_0253c 社。特段の由緒書きなどは見当たりませんでした。ほとんど余談ですが、宝性寺の境内に右の写真のような石が置かれていました。「舟止石」だそうです。約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。
Img_0279c 宝性寺・御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本Img_0271c 願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれていたのにビックリ。それもそのはず、文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城跡といわれます。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。
Img_0269c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。余談ですが、この辺りは大矢知素麺の産地で、街道沿いにも製麺所がいくつかあります。
Img_0291c 東海道が、八風街道と交わるところの少し手前ある「鏡ヶ池跡」は、聖武Img_0295c 天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったと伝わっています。
Img_0305c 鏡ヶ池跡のすぐ先で、東海道と八風街道とが交差します。左の写真で、Img_0311c 左右を横切っているのが東海道、手前から向こうに通っているのが八風街道。道の奥に小さく、JR関西線の八風踏切が見えています。右の写真は、さらに少し先にある関西線西富田踏切。上を通っているのが、三岐鉄道三岐線。
Img_0316c 西富田踏切の先にある浄土真宗本願寺派の木下山三光寺あたりから、地名は富田になります。三光寺には、長明寺のところで出てきた蒔田相模守宗勝の墓碑があるのですが、それはあとで気づいたこと(笑)。三光寺の先で東海道は、大きく左折。
Img_0337c 名所旧跡ではありませんが三幸毛糸紡績富田工場の前を通ります。子Img_0340c どもの頃、実家の近くにも紡績工場がありましたので、なんとなく懐かしい気がしました。この近くには、東洋紡績富田工場もありました。
Img_0355c 三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線が合流する高架をすぎたところで「富田Img_0358c 一里塚跡」の大きな石碑が見えてきます。標柱は立っていますが、塚じたいはすでにありません。日本橋から98番目ですから、98里ということ。四日市市内には、このほか、三ツ谷、日永、采女にもあります。一里塚の先は、東富田村。ここは、間の宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。
Img_0365c その先、JR関西線富田駅の近くには、八幡神社があります。弘安Img_0366c 2(1279)年に勧請された八幡神社が起こりです。かつては「八幡の森」と呼ばれ、樹木が鬱蒼と茂り、昼でも暗かったといいます。八幡社は、明治42(19096)年に鳥出神社に合祀された後、昭和40(1965)年頃、現在の社殿が再建され、富田西町の産土神として戻されたといいます。
Img_0367c 境内の一角には、力石が置かれていました。本日、2つめであります。この力石も、重量約100㎏という説明がありました。説明板には、「ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって健康長寿への親交を深めたのであろう」と書かれていました。
Img_0379c 本日(11/9)の最終目的地も近づいてきました。八幡神Img_0377c 社から目と鼻の先に、「行啓記念道路碑」が立っています。大正天皇が皇太子の時(明治43(1910)年11月)に、創立間もない三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)に立ち寄られ、授業参観されました。そのとき、この道路を通られたことを記念して建てたものです。「まさに破天荒の出来事」とあるくらい驚き、感激だったようです。
Img_0383c 東海道はまだ続きますが、そろそろ12時も近く、6㎞ほど歩いてきましたImg_0387c ので、今日はここまで。行啓記念道路碑のところを右折して、近鉄名古屋線富田駅へ向かいます。9時から歩き始めて3時間。けっこう歩いた気がします。
Img_0393c 駅に着いたとき、急行は出てしまったものの、ホームに上がったら、ちょうどうまい具合に、名古屋行き準急(12時1分Img_0401c 発)が入ってきましたので、これで桑名駅まで。\260。ちなみに、名古屋方向のホーム、反対側は三岐鉄道三岐線が使用しています。
Kyutoukaidou3c
 こちらが、今日のコースのメインの部分(松寺に入ったところは、昨日のKyutoukaidou4c 最後の画像をご覧ください)。出かける前には、大丈夫かといささか自信がなかったのですが、何とか無事に歩き通せました。次は、富田から近鉄四日市駅までをと考えています。
 

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