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2017年7月27日 (木)

今日も会議……昼休みに「元市長 貝塚栄之助氏頌徳碑」を見る

Dscn1660_480x640_2  昨日とは打って変わって、どんよりした一日でした。今日は、一昨日に続いて、市役所で会議。9時から始まり、若干延長されて、5時半頃終了でした。「怠け者の節句働き」で、急にフルに働く日々が続きましたので、疲れました(苦笑)。これでは、もう一度どこかに勤めようと思っても、役に立たないこと必至であります。委員長の先生を初め、事務局を担当してくださった先生方は、さぞお疲れのことと思います。毎年、委員長の先生は、「土曜日の花火大会を楽しみに、この会議を乗り切ろうと思っています」とおっしゃいます(微笑)。
Dscn1671_480x640_2 今日は昼休みが45分ほどありましたので、弁当を食べてから市役所の周りDscn1661_640x425_2 を歩いて一回りしてきました。少しでも身体を動かそう、歩こうということです。市役所の北広場の片隅で、元桑名市長の貝塚栄之助氏の胸像を見つけました。「見つけました」などとエラそうに書いていますが、しっかり意識していなかっただけです。右の写真のように、北庁舎の脇にあります「ちなみにこの建物を北庁舎と呼ぶことも、2~3年前まで知りませんでした。昔々は、図書館だったように記憶しています。
Dscn1672_490x640_2  貝塚栄之助氏は、貝塚卯兵衛の三男。長男、次男が相次いで早世したため、貝塚家の家督を継いでいます。明治15(1882)年生まれ。三重県立一中学(現・津高校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を卒業し、名古屋電燈に入社しています。その後、松阪工業学校(現・松阪工業高校)の教員をしたのですが、大正4(1915)年に父の死去に伴い家督を継いでいます。当時の貝塚家は大地主でしたが、栄之助氏は実業界へ乗りだしたということです。大正7(1918)年に名古屋で高岳製作所(現東光高岳)を設立し、社長となり、23年間務めました。その後、さまざまな企業の社長を務めた後、桑名町名誉助役(昭和5((1930)年)を経て、昭和9(1394)年4月に桑名町長に推薦されます。さらに、昭和12(1937)年には西桑名町と合併して成立した桑名市の初代市長となり、それ以後、戦中の激動期を市長として激務をこなした人物です(西羽晃先生の桑名歴史ニュースの関連記事は、こちら。また、中部電気協会のサイトにも記事があります。ここをご覧ください)。栄之助は昭和20(1945)年6月に桑名市長を退任しています。
 ちなみに、栄之助は2女・2男に恵まれました。長女の美代さんは昭和8(1933)年4月3日に京都の都ホテルで、京都帝国大学(現・京都大学)教授の小川茂樹氏と結婚しました。その後、貝塚家は連続して不幸に見舞われ、長男は戦死、次男は病死。跡継ぎがいなくなってしまったため、長女と結婚していた小川茂樹氏を昭和20(1945)年3月に貝塚家の養子としています。小川茂樹氏は、貝塚茂樹となったのですが、家業を継ぐことはなく、学者として研究活動を続けることを許され、生活費も栄之助から援助されたといいます。
 昭和20(1945)同年7月には、アメリカ軍の空襲で船馬町の自宅も内堀の別邸も焼失しています。敗戦後は財産税と農地解放で大きな打撃を受け、栄之助は昭和22(1947)年に永眠しました。
 今日見てきた「元桑名市長貝塚栄之助氏頌徳碑」は、栄之助の遺徳を偲び、昭和30年に建立されたものです。また、昭和44年には、もと貝塚家の別邸のあった、桑名市内堀(九華公園の南)に「貝塚公園」が開園しています。ここには、「桑名空襲慰霊之碑」も建てられています。貝塚公園でお目にかかる年配の方からは、「ここは風呂場のあとだ」といったお話を伺うことがあります。
 さらに余談を続けますが、貝塚茂樹氏は、東洋学者、中国史学者。専攻は古代中国考古学です。学生時代に、貝塚先生の論語や中国の歴史についての岩波新書を読んだ記憶があります。ただし、「読んだ記憶がある」だけで、中身については忘却の彼方であります(爆)。

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