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2011年7月13日 (水)

太一丸という地名の由来

 今日も今日とて、32.6℃であります。14時のアメダスのデータによります。今日は、昨日の「出勤」の疲れか、はたまた、昨日は午睡の時間がなかったせいか(娘が球技大会で半日、疲れたから、駅まで迎えに来て欲しいというSOSで、13時半過ぎに出動したのであります……親バカです)、夜、暑くてよく眠れなかったためか、朝から、眠気・ボンヤリ感・ふらつきの3点セットに悩まされておりました。オマケは、腹部症状です。腹部膨満と、排便困難が、これまたいつものようにともなっております。

 それでも、週末で高血圧の薬が切れますので、いつもの内科へ行ってきました。8時45分についたのですが、すでに3番目でした。待合室でも躓きそうになりましたから、久しぶりに重症のふらつきです。診察が終わり、近所の調剤薬局で薬をもらって、這々の体で逃げ帰ってきたような次第です。

 いや、それにしても、この猛暑、叶いません。室内で熱中症になるというのがわかるような気がします。小生、娘の高校入学にあわせて、部屋を明け渡して以来、リビングの片隅(南東隅、エアコンの吹き出し口の真下)に間借り生活をしております。エアコンを使っているときは涼しいのですが、そうでないときは、ベランダ側の窓からも少し外れていますので、風が通らないのであります。

 体調がイマイチなのか、加齢効果のせいなのか、これまたよくわかりませんが、暑さのせいもあって、もう一つ活動性が高まらないでおります。アタマも回りません。午後からは、玄関に、網戸をセットしろという厳命が下り、早速購入してきたものを指示通りに設置したのですが、心配したとおりの結末です。朝晩は、割とよく風が通るのですが、かなりの強風になります。そのせいで、設置後わずか数時間も経たないうちに、落下という憂き目に遭遇していました。爆睡の午睡から目覚めて発見して、落胆したのと同時に、「やっぱりな」と思ったのであります。

 「やっぱりな」というのは、組み立て前に説明書と、現物を見ただけで、これでは強度がとてもとても足らないと思ったからです。とこれを書いておりますと、玄関方向から、「ちゃんとつけたのぉ?」と、家内の声が聞こえてくるのであります……。これ以上書きますと、綾小路きみまろの毒舌世界に入りそうですから、控えておきます(苦笑)。

Taichimaru1  さて、前置きが長引きましたが、アタマも働きませんので、昨日、長島輪中図書館で「調べ学習」をしてきた成果をメモして、お茶を濁したいと思います。それは、小生が現在住んでおりますところの“太一丸”という地名の由来です。角川書店からでしたか、ずいぶん以前に出版された県別の地名大事典なるものが、参考図書の書架に恭しく鎮座しており、それをひもといてみたのです。

 

太一丸(たいちまる)

今一色大北町(現在の、今片町でしょう)の北にある町屋敷地。その名は、慶長年間(1596~1615)、この地で伊勢神宮の御用材運搬船「太一丸」を造船したことに由来する。古くは、袖野(そでの)と呼ばれた。

この辺りは、三崎の豪家・贄家の所有地で、宝治元年(1247)、その没後、浄土寺(現在は、桑名市清水町;本多忠勝による慶長の町割で、現在地に移転、桑名藩主本多家の菩提寺)に寄進されたという。

西端の一小区を水主町(かこまち)といい、桑名半の船方奉行配下の水主(かこ)が居住していた。この水主たちは、享保8年(1723年)に浄土寺屋敷から、当地へ移転した。東端の入り江に桑名藩の御用船、御座船の船小屋あり。明治4年(1871)、ここを埋め立てて、住吉町とする。

太一丸には、豪商・山田家屋敷がある。現在は、諸戸氏が購入し、諸戸家屋敷となる。

当町北側の揖斐川堤を鍋屋堤と称する。

 概略、以上のような記述がされていました。上記の地図の画像(桑名ふるさと検定 桑名のいろは、桑名市商工会議所発行)でも、「袖野」という地名が見えますので、これが現在の太一丸であろうと思います。ただ、これは、”久波名名所図会”の”益田荘桑名三崎天正元亀以前の図”に見えるものです。元亀、天正とも元号で、元亀年間は1570~1573年、元正年間は1573~1591年で、それ以前ということです。元亀元年(1570)は、まだ織田信長の世で、ちょうど、長島では、”伊勢長島一向一揆”が起こった年です。1575年に、長篠の戦があり、信長・家康連合軍が、武田勝頼を破った頃であります。したがって、地図の描き方も、当然現代とは異なっているでしょうから、方角、距離とも正確ではないと思います。

Taichimaru2  こちらの地図も、「桑名ふるさと検定 桑名のいろは(桑名商工会議所)」からお借りしました。これは、「木曽川筋尾濃勢三国の図」とされています。「尾濃勢三国」は、尾張、美濃、伊勢の3つを指しています。この地図では、左下の赤丸で囲んだところに、太一丸という地名が記載されています。この図は、いわゆる「宝暦治水」以前の図であろうと思われます。というのも、宝暦治水は、1754年に工事が始まり、1755年に完成していますが、それによって、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の分流が実現に向かうのですが、この図ではまだそうなっていませんので。

 ちなみに、宝暦治水は、当地辺りでは、小中学校でも学習しますが、幕府が薩摩藩に命じて実施したもので、工事費用の見積もりは15万両にものぼり、薩摩からは藩士500名余り、下働きのもの300名余りなど、総勢1,000名ほどの人たちが動員されたといいます。工事費用は、見積もりを遙かに上回り、40万両にも達したそうです。これによって、薩摩藩の累積赤字は、100万両を超えてしまったといいます。また、工事にともない、切腹者14名、人柱1名という犠牲も出てしまったのです。その責任を取って、総奉行・平田靭負は、責任を取って52歳で切腹したといいます。この多大なる犠牲をともなった工事のおかげで、それまで、「御囲堤」の影響もあって、水害に悩まされていたこの地方も、救われたということです。宝暦治水は、現在にも語り継がれており、桑名では、海蔵寺(桑名市北寺町)に、これら薩摩義士の墓所があり(墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺にわたります)、海蔵寺には平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっています。今でも、毎年5月25日には、「薩摩義士追悼特別大法要」が営まれます。

Map  ちょっと話が広がりすぎましたが、我が家のマンションの東にある惣構堀の歴史も垣間見えました。現在と配置が異なるようではありますが、桑名藩の御用船や、藩主が使用された御座船をつないでいたところだというのは、ちょっとした歴史のロマンです。左のマップでは、「住吉入り江」とされているところが、惣構堀であり、この東側(右側)が、現在の住吉町です。

 午後からは、爆睡してしまいましたので、多少、体調は回復してきました。明日は、また、できれば、長島輪中図書館へ、半日でも「出勤」できればと思います。やはりまだ、現在の体調、体力では一気に回復とはいきませんし、何といってもこの猛暑の中、無理は禁物です。すでに、さほど若くもありませんから、「気持ち」や「気合い」だけで、ナントカしようと思ってはいけません。

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