昨日、書こうと思っていた話題です。今朝は、眠気が強いのですが、変な緊張感や、肩こり、歯の噛みしめは、今のところ強くありません。
“内田樹の研究室”の10月26日のエントリーが、“会議と書類の大学”というテーマでした。部分的な引用では、議論の本筋が見えないかもしれませんから、是非リンク先をお読みください。これについては、私も愛読している、“5号館のつぶやき”さんのブログでも取り上げられています(「会議と書類の大学」はおとぎ話ではない)。
内田さんのエントリーの前振りには、中村桂子さんのコメントを引きつつ、役人が教育研究活動に容喙するとどうなるかが、結論的に述べられています。
ノーベル賞の物理と化学あわせて受賞者が4人出たことは慶賀すべきことであるが、いずれも20年30年前の業績についてのものであることの重大性を指摘する人が多い。
中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)もその一人である。
今の日本の研究体制であれば、20年後30年後にノーベル賞を受賞するような研究は出てこないだろうと中村さんは言っている。
「現在、ちょっと変わった新しいことを考える雰囲気がない。大学が法人化され、競争的資金と言われ、すぐに成果の出ることばかりに追われ、自由度がなくなっている。会議と書類づくりの毎日はいつか軌道修正されると思っているが。」(毎日新聞10月26日)
役人が研究をコントロールしようとすれば、必ずそうなる。
役人が教育研究活動に容喙すれば、教育研究の質は不可避的に下がる。
このあたりは、最近の食品の安全の問題、医師不足・偏在、医療システムの崩壊の問題年金制度や、その記録問題、後期高齢者医療制度の問題などを見ていれば、役人、とくにいわゆる国のキャリヤの役人のすること、考えることを見ていれば、ろくなことをしていないということは、火を見るよりも明らかでしょう。
引用が長くなりますが、本題についての言及部分をみてみましょう。
来週私どもの大学ではある評価機関による実地調査がある。
この種の調査で大学の質保証を行うことは原理的には不可能であると私は思っている。
というのは、大学教育の質保証のための検査項目は論理的には「無限」だからである。
「この大学はちゃんとしていない大学です」ということを証明するのは簡単である。
二重帳簿があるとか、専任教員が学歴詐称しているとか、本人確認をしないで単位を出しているとか、一つでも「ろくでもない」事実が指摘できれば、「ダメな大学」と認定できる。
法律上の犯罪と同じである。
私たちがふだん市民として大手を振って町を歩けるのは、「私は犯罪者ではない」ことが証明されているからではない。「私が犯罪者であること」が証明されていないからである。
これを「推定無罪」(presumed innocent)という。
<中略>
「推定有罪」の原理に立つ限り、私たちは全員が全員を監獄に永遠に閉じ込める以外に合理的な選択肢が存在しないのである。
文科省や大学基準協会が推進している「アクレディテーション」というのは「この大学は100%まっとうな大学です」という質保証をすることである。その質保証ができない大学は「まっとうではない大学」と見なされる。
つまり、「推定有罪」である。
だから、検査項目は無限であり、検査時間も無限になり、私たちが書かされる書類も無限に増えてゆく。
だが、大学はそのもてるすべてのリソースを「質保証」に注ぎ込んでもそれでも「これまで質の高い教育をしてきたし、これからもするであろう」という事実を証明することができない。
永遠にできないことに、本来であれば教育研究に投入すべきリソースを投入することは無駄である。
彼らは大学に向かって「まっとうな教育研究をすることよりも、『まっとうな教育研究をしていることを証明する仕事』を優先させよ」と言っているのに等しい。
大学内部にいる方は、学校教育法の改訂によって、7年ごと以内に“認証評価機関による認証評価”を受け、それを文科省に報告するとともに、公表することが義務化されていることはご存じでしょう。ここ1~2年のうちには、すべての大学がこれを経験するはずです。規制緩和に伴う、事前審査から、事後評価への重点のシフトの一環なのです。
“認証評価機関による認証評価”という用語は、解説しないと意味が分からないと思います。文科省(文部科学省)が、認証した(認めた)評価機関が、認証評価機関です。これは、大学については、独立行政法人大学評価・学位授与機構、財団法人大学基準協会、財団法人日本高等教育評価機構などがあります。これらの認証を受けた評価機関が、大学を評価し、大学として的確か否かの評価することが、“認証評価機関による認証評価”という意味になるのです。
幸か不幸か、私は、評価される側と、評価する側の両者を経験しました(というより、主観的には、させられました、です)。一言で言えば、どちらも大変だ、ということに尽きます。懲り懲りします。評価者としては、2つの機関の評価委員を経験し、評価される側としては、学部の外部評価の実質上の責任者を経験したのです(余談ですが、その疲労で、ダウンするのにダメを押されたと主観的には思っています)。
評価の仕組みは、おおむね似ています。まずは、認証評価機関に評価を受ける希望を提出した上で、大学・学部の教育理念・教育目標をいかに具現化しているかをかなり詳細な項目について、データを示した上で、現状とその自己評価、改善策についての“自己評価報告書”を作成し、提出しなければなりません(補注:国立大学法人はほぼ、大学評価・学位授与機構、公立大学・公立大学法人は、この評価機構か大学基準協会、私立大学は、大学基準協会か、高等教育評価機構など私大協会などが作った組織と、見事に棲み分けがされているようです)。そこには、さらに、学則などの各種の規則、学生便覧、入試要項などの参考資料を添付します。
評価機関は、各大学あるいは、規模の大きな大学であれば、その各研究科・学部ごとに評価委員会を設け、自己評価資料に基づいて、まずは、書類審査を実施します。書類審査は、各委員が個別に行い、文章化した結果を委員会に持ち寄り、主査の委員がそれらをとりまとめ、評価案や、実地審査に向けた確認点を作成し、その後実地審査を行います。さらに、実地審査の結果も踏まえて、最終的な評価案を作成し、それぞれの評価機関の評議員会など最高議決機関に諮り、大学側に内示し、異論等があれば合議を行った上で、最終的な評価報告書となり、当該大学と文科省に報告の上、報告書が作成されたり、評価機関のWebサイトで公表されます(これを、一般の市民の方がご覧になっていることは、ほとんどないとは思うのですが……)。大学評価・学位授与機構と、大学基準協会とにリンクしておきますので、ご興味がありましたら、是非。
この中で、自己評価資料を作成するのに、膨大な事務作業を要します。指定された項目があり、添付を指示された数値的データがあり、それらを大学の教育理念、目的に沿って評価して、まとめるのです。また、評価者の側は、それらを読み込んで、必要であれば、参考資料を確認したり、さらに不明であれば、評価機関の担当者を通して、当該大学に確認するという作業を行うのです。しかも、本務の仕事は、普通にこなしながら、2カ所の評価機関の場合とも、1ヶ月~1ヶ月半で、2カ所の大学(もしくは学部)について、委員としての評価案を作成しなければならないのです。
自己評価報告書については、ページ数制限をしている機関(A4で100ページ以内、など)とそうではない機関とがありますが、過去の経験では、1つの大学で、自己評価報告書+参考資料が、段ボール箱1つ分届いたことがあります。私の場合は、いずれも2カ所ずつ担当しましたので、これらの資料を保管したり、点検する場所にも困るくらいでした。
評価を受ける側も、する側もマニュアルはありますし、また、評価者は、共通の基準で評価するための研修会もあります。こういうことを書くと、とても不謹慎ですが、“とてもじゃないが、マジメにやってられない”のです。本務の授業、会議、研究指導、社会貢献にプラスアルファの、いわばほぼアカデミックボランティアに近い仕事で、これだけの労力と時間をとられては、たまりません。最終報告書が出るまでは、匿名でやる仕事ですし。
ちょっとだけ元気が回復してしまったせいで、長々と書きましたが、これが、認証評価機関による大学の認証評価の一端です。さらに、国立大学や、公立大学の半数ほどは、独立法人化しましたので、これらの他に、6年間にわたる中期目標・中期計画を立て、それの達成度についても、別の評価機関(評価機関が多すぎて、名称もよく覚えていないくらいです)から評価を受けなければなりません。こちらについては、年次報告も提出し、その都度、ありがたい評価やコメントも返ってきます。
こうやって、お役人の統制の元、大学はアカデミックな機関から、お役所に変貌しつつあるというのが、私見です。私の本務先である、公立大学法人N市立大学のことを、かつて、同僚の社会学者が、N市役所大学と揶揄したことがありましたが、恐ろしいことに確実にそれに近づきつつあります。
内田先生の元ネタと、5号館のつぶやきさんの、それに関連したエントリーも是非お読みください。現代の大学教員は、決して楽なショーバイではありえません。
最近のコメント