2019年6月24日 (月)

ヤバい公園を巡って(笑)……鳥取神社のイヌナシも見てきました

Img_1335c_20190624152901  最高気温は31.3℃。朝は雲も多めでしたが、その後は青空に白い雲。まるで夏の空。梅雨はいったいどこに行ったのか?と思うほど。鎮国守国神社に宿舎をとっている大相撲峰崎部屋、今日は九華公園相撲場で土俵を清める神事のはず。そちらも気になったのですが、ブロ友さんのブログを見ているとそろそろ行かねばと思うところがありました。それ故、今日は、プチ遠征。ただし、主たる目的はバードウォッチングではありません。ちょっとアブナイところかも(笑)。

Img_1388c_20190624152901  まずやって来たのは、こちら。「サル出没注意」の看板があるところ。ここ2~3年、梅雨から梅雨明け頃通っていますが、未だImg_1341v サルに遭遇したことはありません。秋から冬の方がよく出るのではないかと思います。ここは、東員町にある万助溜公園。そうなのです、そろそろ蓮が咲き始め、チョウトンボも出て来たということで、そろそろ行かねばと思っていたのです。

Img_1909c  9時頃到着。右上の写真は、上溜。ここに東屋があり、蓮田になっています。このあたりなどにチョウトンボがいるのです。今Img_1921c 日もここに到着した早々、1羽が飛んでいたのですが、すぐに見失いました。上溜の周りや、木道を歩いて、蓮や、睡蓮を撮影しながらチョウトンボを探すものの、なかなか見つけられず。30分近く経った頃、もう1羽が登場したのですが、これもすぐにどこかに消えました。溜池の南側の高くなっているところから探したら、葦の間に2羽いるのをようやく見つけました。今日は、これでやむを得ず。他日を期すことにします。

Img_1786c  蓮は、3枚目の写真にあるように、まだ咲き始めたところ。チョウトンボや他のトンボも見ながら、上溜あたりを回って、あImg_1796c れこれと撮って来ました。

Img_1823c  すでに花びら(?)がかなり開いてしまったものもありますが、それはそれで楽しめます。Img_1840c まだまだこれからたくさん蓮が咲きますし、チョウトンボもきちんと見たいので、また何度か出かけることにします。

Img_1922c  ここは大きな鯉も何匹もいますし、こちらのカメさんもImg_1816c いました。ニホンイシガメのように思います。ミドリガメは見あたり ません。貴重なカメです。万助溜公園には1時間ほど滞在。

Img_1396c  次いで、こちらへ。もっとヤバい看板があり、ビビります(笑)。イラストまで入れなくてもよいのにという気もしますが、Img_1397c_20190624152901 この方がアピールするんでしょうね。こころんさんのブログによれば(紫陽花めぐり)、実際に噛まれた人もいるとか。とくに池の方(下)へ降りていくとアブナイということで、今日は降りるのはやめておきました。アジサイにはちょっと遅いかなと思ってきたのですが、やはり遅かったようです。去年は、6月11日に来ていますが、そのときはアジサイは見事でした(東員町の中部公園と万助溜公園へ……アジサイを楽しみ、チョウトンボをチラッと見る)。ここはカワセミが姿を見せたり、去年はチョウトンボをチラッと見ました。今日もそれを期待したものの、どちらも見られず。もう少し早い時間に来ないとカワセミはいないかも。そのため、今日は水景苑の池の周りを一周してオシマイ。中部公園で10時40分。まだ早いので、近くの行きたかったところを確認することにしました。

Img_1406c  それは、こちら。鳥取神社。この境内にイヌナシがあるのです。由緒は不詳ですが、延喜式内社という石柱がありました。天Img_1412c 正の兵火で現地へ遷り、江戸時代は「諏訪社」と称していたといいますが、鳥取神社と称された経緯は不明。員弁川の西、笠間小学校の北、集落の中、2つの小川が合流する地点にあり、古くは川中島といわれた地です。明治5(1872)年に村社。

Img_1415c_20190624153001  御祭神は、天湯河桁命(あめのゆかわたなのみこと;鳥取造(ととりのみやつこ)の祖。垂仁天皇23年、皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は30歳になっても口をきかなかったが、クグイ(白鳥)が飛ぶのを見てはじめて話すことができた。天湯河板挙は天皇の命でその鳥を捕らえて献上し、その功により氏姓をさずかり、鳥取造と称したといいます)。相殿神は、天照大御神、大山祇Img_1417c_20190624153001 神、市寸島姫命、宇迦之御魂命、大国主命、火産霊神、建御名方命。

Img_1439c  拝殿に向かって右(北)にイヌナシの木があります。イヌナシの木は、日本では愛知・三重・岐阜のみに生Img_1442c 息する野生ナシで、植物学上希少な種とされています。この近くではここの他、多度や東阿倉川に群生地があります。この木は、平成6(1994)年に生育が確認され、学術的に価値の高いものとして町指定天然記念物となっています。本当は、4月に咲くという白い花を見たいと思っていました。神社の前にある藤川堤防には桜並木もありますから、また来年。ちなみに、イヌナシは、マメナシといわれる野生のナシの中では原始的な種だそうです。

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2019年6月23日 (日)

九華公園でわんぱく相撲大会

Img_1330c_20190623171001  昨日の近鉄ハイキングは、さすがに疲れました(笑)。勝手に期待を高めすぎましたので、自業自得という面もあります。今日は、控えめに、いつものように散歩であります。暑いとイヤなので、8時スタート。住吉神社、九華公園、貝塚公園、春日神社、京町、田町と5.7㎞。あちこちで知人、散歩友達(少しずつ増えたりしていますが、私より高齢の方ばかり)などにお目にかかり、しゃべってきています。アガパンサスは、田町交差点近くの眼科医院の前にて。

Img_1259c  さて、今日は、九華公園相撲場で「わんぱく相撲大会」が開かれていました。先日、峰崎部屋のお相撲さんにImg_1260c 聞いていましたので、まずはこれを観ようという次第。桑名大相撲愛好会が主催し、峰崎部屋と市教育委員会が後援、桑名三重信用金庫が協賛。8時40分頃九華公園の北門についたときには、すでに大賑わい。しかも、付添の親や祖父母の数が子どもたちの数をはるかに凌駕。

Img_1295c  十両・荒鷲関も来ていましたが、峰崎親方の姿はありませんでした。峰崎部屋のお相撲さんが行司役。9時頃から取り組み開Img_1272c 始。相撲場の土俵は、まずは小学校1年生の部から。といっても、親御さんや、祖父母の方の方が熱が入っている感じでした(微笑)。男の子たちは、上半身は裸、短パンの上に着脱式の、ベルトのようなまわしを着けています。

Img_1289c  女の子たちは、やはり土俵には上がれないのか、相撲場脇に土俵の円形、仕切り線を描いたマットを敷いて、その上で相撲に取り組んでいました。わんぱく相撲大会のあとは、ちゃんこ鍋のふるまいがありますが、これはあらかじめ申し込んでおかないといけないようでした。

Img_1317c  春日神社にも行ってきたのですが、いつも6月30日に夏越しの大祓があり、茅の輪くぐりが催されます。今年もそろそろ茅のImg_1319c 輪がしつらえられているかと思ったのですが、まだでした。去年は行かなかったようで、一昨年の記事がありました(2017年6月27日:船頭平河川公園で蓮の花……コアジサシの営巣地は営業終了、治水神社でアオサギコロニーそして、春日神社で茅の輪くぐり)。鎮国守国神社の茅の輪くぐり、毎年7月20日で、今年も同様だそうです(2018年7月20日:土用の丑の日……鎮国守国神社では茅の輪くぐり)。

Img_1763c  野鳥は、スズメ、ムクドリ、カラスくらい。九華公園には先日、巣立ったツバメのヒナが親に連れられてきていましたが、今日はいません。基礎訓練が終わって、次の段階に進んだのかも知れません。このところ、散歩コースでは、再びスズメの幼鳥が目立ちます。左の写真は、九華公園の吉之丸堀の上空を通る電線。ほとんどが、黄色い嘴のスズメの幼鳥。Wikipediaの説明では、「1年に2回程度繁殖すると考えられている」とあります。

 ツバメの巣チェック。左右の2枚は、京町のImg_1322c 呉服屋さんの巣。ヒナは3羽いるように見えます。ちょうど親ツバメがエサを運Img_1774c_20190623171001 んで来て与えたところでした。右の写真、向かって右のヒナ(まだ目も開いていないようです)が、トンボをもらっています。トンボの翅と尾が一部見えています。写真をクリックすると拡大しますので、苦手な方はご注意ください。

Img_1331c  田町の商店にあるツバメの巣。親が巣に就いていますし、近くにもう1羽、親ツバメがいました。京町の呉服屋さんも、ここも営巣は2回目ですが、いずれも複数ある巣のうち、別の巣を使っています。「二番仔」と呼んでよいものかどうか、分かりません。

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2019年6月22日 (土)

20190622近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと夏のおとずれを感じて」……昨年のリベンジなるか?(完)

 朝方、9時頃まで小雨が降っていました。雨雲レーダーを見ていると雨雲は北へ向かい、じきに止みそうでしたので、予定通り、近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと夏のおとずれを感じて」に行ってきました。今日の受付・集合は、近鉄名古屋線・北楠駅。9時半から10時半でしたので、「慌てていかなくてもいいや」と思い、雨が止んだ9時過ぎに出かけ、桑名駅を9時29分に出る普通電車・津新町行きに乗車。北楠駅には10時9分の到着。¥400。桑名駅では、散歩友達のOさんと遭遇。四日市へいらっしゃるということで、四日市までご一緒。

Img_1054c  北楠駅。去年も同じコースのハイキングに参加しています(2018年5月19日:近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」へ……楠中央緑地公園、吉崎海岸でハマヒルガオそして御園神社(完))。このとき、ハマヒルガオは少Img_1056c し咲いていたのですが、妄想していたほど「一面にハマヒルガオが咲いている」光景ではありませんでした。そこで、今回リベンジを図るべく、同じコースは承知の上、再度参加した次第。右は、今日のコースマップ。日時など以外は、去年とまったく同じであります(苦笑)。北楠駅から、楠中央緑地公園を経て吉崎海岸へ。ここでハマヒルガオを見て、鈴鹿川沿いを歩いて御薗神社に立ち寄って、名古屋線・塩浜駅がゴールです。近鉄ハイキングのサイトには、約9㎞とありますが、去年は8㎞でした。

190622kintetsuhikingkitakusu  こちらが実際に歩いたルートをトレースした実測ルートマップ。実際に歩いたのは、7.8㎞でした。立ち寄り先は3ヶ所しかありません。去年同様、ひたすら歩くことになります。北楠駅を10時15分にスタートして、まずは東へ向かいます。

Img_1064c  最初の立ち寄り先は、楠中央緑地公園。遠くにコンビナートを眺めながら、田園地帯を走る県道6号線を歩いて、1.2㎞。10時半に到着。75,500平方メートルという広い公園。水生植物園や、自然観察園などもあります。左の写真は、この公園のシンボルといってもよいかと思いますが、中洲の山。去年は登りましたが、今日は曇天でしたので、さほど眺めも利かないかと思い、パス。トイレ休憩のみ。

Img_1068c  ということでほとんど通過して、県道に戻り、海岸まで。2.4㎞地点。ここで左折し、北へ。堤防には、子どもたちが描いたImg_1078c と思われる絵があります。2.8㎞地点で右折し、磯津漁港を通ります。右の写真のように、吉崎海岸やハマヒルガオの案内板があります。「ウェルカメよっかいち」という駄洒落は、ちょっと戴けません(苦笑)。役所や、NHKなども駄洒落のようなネーミングをしたり、番組をつくったりしていますが、どうもなぁという気がしています。

Img_1081c  それはさておき、というか余談というか。磯津漁港で泳いでいる黒っぽい鳥。まさか今頃? と思ったのですが、やはりオオImg_1086c_20190622163801 バン。冬場は、こういうところにいても不思議はないのですが、どうしたのでしょう? さらに、このあたりから吉崎海岸付近の電柱、電線の上には何羽ものホオジロ。さえずっています。ハイキング参加者の中にも見上げていく方、多数。

Img_1089c_20190622163801  そして、とうとうやってきました。待望の吉崎海岸。去年のリベンジで、いよいよ「海岸一面に広がるハマヒルガオの花」という妄想が膨らみまImg_1097c_20190622163801 す(爆)。が、エッ?! あれ!? 目の前に広がるのは、右の写真のような光景。何かの間違いではないかという気がします。しかし、老眼のせいでも、近視のせいでもありません。これが、今日の現実(苦笑)。ハマヒルガオはまったく見当たりません。

Img_1095c_20190622163801  ハマヒルガオ見たさにここまで蒸し暑い中、頑張って3㎞半も歩いてきたのに、この仕打ちはいったい何? と大騒ぎはしまImg_1108c せんでしたが、どうも時期が遅かったようです。一通り見て回りましたが、ハマヒルガオは咲いていません。現地の説明板によれば、「見頃4月中旬~5月上旬」とか。去年来たのは5月19日で、ちょっと早かったかと持ったのですが……。こちらの観光協会のサイトでは、「5月中旬~6月中旬」とあります。自然のことですから、多少のズレはあるのでしょうが、統一してくれませんかねぇ(笑)。呆然としていたら、津市からいらしたという高齢の女性お二人連れから、「ねぇ、ハマヒルガオはどこ?」と尋ねられます。「咲いていませんね。遅かったのではないでしょうか」とお答えしたら、「エ~ッ、「潮風薫るハマヒルガオ」ってあったから来たのに、何? どういうこと?」とご立腹。まぁ私にいわれてもということですが……。さらに、「花がないのなら、葉っぱはどれ? 葉っぱだけでも見て帰りたい」と。残念ながらヒルガオらしき葉っぱも見当たりません。

Img_1119c  こちらの白い花はあちこちに咲いていました。また、ハマボウフウの花が咲いたあとも見られましたが、肝心要のハマヒルガオはどこにも見当たりません。そういえば、去年は、堤防道路や、漁港脇のあちこちにハマヒルガオが咲いていたのに、今日は、まったく見られませんでした。それに、吉崎海岸から戻ってくるハイキング参加者の皆さん、なんだか元気がなかったのは、ハマヒルガオがなくてガックリしておられたということなのでしょう。花を見に行くというのは、時期というか、タイミングというか、難しい。他力本願ではなく、本当に見たければ、自分で調べて、自分で行かないといけません。

Img_1145c  吉崎海岸に来た頃から、晴れてきて、空には白い雲。見ているだけでいかにも暑そう。湿度も高く、蒸し暑くなってきましImg_1157c_20190622163801 た。リベンジは失敗に終わり、何だか疲れましたが、これから磯津、塩浜の工場地帯を歩いて、塩浜駅を目指さなければなりません。まずは、磯津にある工場の間の坂道を登って磯津大橋へ。こういうダラダラの坂、けっこうキツいのです(苦笑)。

Img_1159c_20190622163801  スタートから5.6㎞で磯津大橋、鈴鹿川にかかっています(11時37分)。橋の向こうが塩浜。四日市コンビナートになります。昭和35(1960)年から稼働しましたが、その直後から、住民の方たちは騒音やばい煙、振動、悪臭に悩まされました。当時は、エネルギーのほとんどが硫黄分の多い中東原油であったため亜硫酸ガスがたくさん排出され、住民にぜんそく患者が多く見られることとなり、これが「四日市ぜんそく」と呼ばれました。

Img_1168c  鈴鹿川を渡って、左岸を上流方向へ。ここは、バードウォッチングスポット。あちこちでホオジロのオスがさえずっていますImg_1171c し、ダイサギも4羽ほど。他にもウグイスの鳴き声や、カワラヒワ、カルガモ、カワウなど、いささかの楽しみもありました。バードウォッチングを趣味にしていなければ、こういうところを歩くのは耐えられなかったかも知れません(苦笑)。

Img_1176c_20190622163801  スタートから6.9㎞、11時55分に小倉橋を右折し、北へ。塩浜街道(ここも県道6号線)に入ります。ここImg_1189c まで来れば、ゴールの塩浜駅も遠くはありません。7.5㎞地点の御園町一丁目の信号の交差点で左折し、御薗神社に向かいます。

Img_1201c 御薗神社の手前の交差点の南東の角で、道標を見つけました。去年は見逃しています。これは今年の斬発見(大袈裟な……笑)。四日市あたりにたくさんある「服部泰次郎Img_1202c_20190622163801 の道標」の1つでした。北面には「左七津屋」、南面には「右七津屋」とあります。大正8 (1919)年、三重郡小杉村の服部泰次郎が建てています。七津屋は、戦前、ここから東へ400mほどにありました(現在は昭和四日市石油㈱四日市精油所の敷地)。昭和10年代半ばまで、ここ塩浜は田んぼに囲まれた農村でした。桑名から四日市を経て、白子へと続く「浜街道(参宮下街道)」、塩浜本町の南から西へ斜行して大里・河原田へ向かう「河原田道」、御薗神社前を東へ、七津屋を通って高旭・浜旭町から磯津へ通じる「磯津道」などが通っていました。この道標が立つのは、浜街道と磯津道の四つ辻です。七ツ屋は、昭和13(1938)年に用地買収が始まった海軍第二燃料廠の進出に伴い、旭地区と共に立ち退きを余儀なくされています(こちら)。

 服部泰次郎は、安政元(1854)年、三重郡小杉村(現在は四日市市)に生まれました。10代半ばから半農半商の父親を手伝い、小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩き、29歳の頃には米穀商を手がけます。近郊で買い集めた米を四日市港から横浜へ船積みして伊勢米の販路を拡大しました。日清・日露戦争の際には軍用米の扱い業者となり、その後、アメリカへの米の輸出を行うなど県下屈指の米穀商となっています。大正8年(1919)年3月、行商をしていた頃の道がわからなくて苦労をした経験から、道標建立を三重郡役所に申し出ます。泰次郎は、道標の建立がだいたい出来上がった大正9 (1920)年2月に永眠。享年67。泰次郎の道慓は、集落の辻に立てられ、その多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものと考えられています。

Img_1208c_20190622163801  最終の立ち寄り先は、御薗神社。去年も来ています。スタートからは7.7㎞、時刻は12時10分。創祀年代は不明ですが、もともと神宮の御園として御贄塩を納めていImg_1219c_20190622163801 て、塩田の守護、住民の繁栄祈願のため外宮の御薗を社名に冠して創祀したと考えられています。主祭神は、天照大御神。忠魂碑1基、神武天皇遙拝所があります。詳細は、去年の記事をご覧いただければ幸いです。

Img_1222c  今日のハイキングは、かなり速いペースで歩いてきましたが、蒸し暑くてさすがにお疲れ。ゴールの塩浜駅は100m先なのですが、ここで昼食&休憩としました。例によって駅ナカファミマの幕の内弁当(税込み¥398)。値段からしてまぁこういうものでしょう(笑)。ただ、ご飯がもう少し美味しいとありがたいと思います(温めれば違うのかも知れません)。ここで、吉崎海岸で出遭った、津の高齢女性お二人と再会。「あれからガッカリして、足取りがすっかり重くなって、今日は一段と疲れた」とぼやいておられます。同感。30分ほど休んで、ようやく重い腰を上げます。

Img_1231c  ゴールの塩浜駅。神社を出てすぐ(100mもありません)。12時40分着。すぐに名古屋行き急行がありましたので(12時46分)、それに乗車。乗ってからよく考えたら、いつも江戸橋に仕事に行った帰りに乗るのと同じ時刻の急行でした(江戸橋を12時20分に出ます)。桑名駅には、13時4分着。¥350。

Img_1245c_20190622163801  本日のALKOOのデータは、左の写真の通り。歩数は、16,367歩。歩いた距離は、キョリ測ではハイキングで7.8㎞(+Img_1246c α)、桑名駅往復が1.8㎞ですから、合計9.6㎞。この歩数は妥当と思われます。あみま倶楽部のスタンプは、21個目をゲット。去年が1年でこれくらいでしたから、今年は相当頑張っています(笑)。今日は、蒸し暑くてかなり汗も掻き、疲れました(苦笑)。ハマヒルガオに期待が大きかっただけに、落胆も大きく、それも影響しています。近鉄ハイキングは(JRさわやかウォーキングも)、7~8月は休み。今月中まだ企画はありますが、予定その他で参加できませんので、夏前は今回で区切り。

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2019年6月21日 (金)

鎮国守国神社に大相撲峰崎部屋のお相撲さん登場

Img_1043c  午前中はそれなりに晴れていましたが、午後は雲が多い空になっています。気温は28℃台でしたが、今日も蒸し暑い感じ。若干迷いましたが、いつもの散歩コースを5.8㎞。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町、田町です。迷ったというのは明日のことを考えて。明日は、近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと夏のおとずれを感じて」が、近鉄名古屋線・北楠駅から塩浜駅であるのですが、天気がよく分からないのです。よく分からないというのは、テレビ局によって予報が異なるからです。時々雨が降るというところと、晴れというところとあるのです。雨が確実なら、今日、ハマヒルガオを見に行ってこようかと思ったりしたのです。結局、明日のことは明日として、いつも通りの散歩。

Img_0977c  九華公園というか、鎮国守国神社には、大相撲名古屋場所(7/7~21、ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館))に備えて、峰崎部屋のお相撲さんがやって来ます。神社を宿舎に、公Img_0982c 園の相撲場で朝稽古をするのです。一昨日はまだありませんでしたが、今朝は、幟が何本も公園の北口に立っていました。相撲場の土俵も整備されており、稽古の準備は万端という感じ。先発隊の幕下のお相撲さんがいて、話を伺ったら、日曜(6/23)にちびっこ相撲を行い、稽古は、火曜(6/25)からだということでした。峰崎部屋の朝稽古もすっかり桑名のこの時期の風物詩になっています。十両の荒鷲関、5月場所では東12枚目でした。成績は8勝7敗。十両に留まっているはず。

 

Img_1697c  相変わらずというか、いうまでもなくというか、鳥はおりません。ハクセキレイは、柿安コミュニティパークにいました。若いImg_1702c ように見えます。九華公園の吉之丸堀、一昨日、一昨昨日とツバメの巣立ったヒナが訓練にやって来ていました。今日もいたのですが、親ツバメはあまりやって来ません。「独り立ちしなさい」ということかも知れません。このツバメを見られるポイントの辰巳櫓跡近くでシルバー人材センターの方の掃除が始まりましたので、やむなく撤退。このあと、公園の外周遊歩道でメジロ1羽を見たものの、写真には撮れませんでした。

Img_1720c  京町からは、例によってツバメの巣の巡回。左は、京町のお宅の巣。ここは、一度巣立ったのですが、その直後から、親ツバメが1羽巣に就いています。二番仔にしては早すぎます。別の親ツバメが来ているのでしょうか? 聞いても教えてはくれません。このあと、吉津屋町にあるお宅の巣を見たのですが、巣立ってしまっていました。

Img_1734c  京町の呉服屋さんの巣。3つあるうち、奥の巣(前回巣立ったのは、手前の巣)に先日から親ツバメがいました。親が巣を離Img_1727c れたときに撮った写真にヒナらしき姿が映っていました。肉眼では分かりませんでした。これは、卵から孵って早々という感じがします。

Img_1752c  こちらは田町の商店にある巣。ここも2ヶ所の巣があり、先だっては南側の巣から雛が巣立って行きました。その後から、北側の巣に親がいるようになっています。ということで、ツバメの巣チェックももうしばらくは続きそうです。

Img_1746c  さて、明日は、冒頭にも書きましたように、天気がよければ、近鉄ハイキングで四日市の吉崎海岸のハマヒルガオを見てこようと思っています。そうそう、来週火曜からは、峰崎部屋の朝稽古も始まります。これも見に行かなくては。ノウゼンカズラ、いよいよ元気に咲いています。

 

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2019年6月20日 (木)

某所その1でコチドリが営巣中、M池公園ではカイツブリのヒナも元気……コアジサシはすっかりいなくなってしまいました

Img_0787c  最高気温は32℃を超え、蒸し暑い1日でした。水曜日の仕事が終わると、プチ遠征したくなります(微笑)。非常勤の前は、これでも少しは抑制しようという気持ちが働くようです(笑)。ということで、長良川河口堰、長島町内某所2ヶ所と、M池公園に行ってきました。河口堰には8時35分からほぼ1時間。その後、某所でコアジサシが戻って来ていないかを確認し、M池公園へ。M池公園には10時15分からほぼ1時間、カイツブリのヒナを見てきました。左の写真は、長良川河口堰にて。堰のゲートを上げ下ろしする機械室と、その向こうには長良川、伊勢大橋が見えています。

Img_1474c_20190620204601  長良川左岸(東側)には、堰の下流にダイサギが1羽いたものの、覗いてみるか見ないかのうちに逃げられました。いつもながら友好的ではありません(苦笑)。管理橋を渡る途中では、ハクセキレイが数羽。西側に渡って、魚道の下流にはアオサギが2羽、上流側にはダイサギとアオサギが1羽ずつ。いずれも、こちらが見るとすぐに逃げます。写真は、親水広場を回って戻って来たとき、閘門のところに来たダイサギとアオサギ。

Img_0807c  親水広場では、ハクセキレイと、コチドリ2羽。コチドリは、ペアのようで、離れていても鳴き交わしていました。先週来たとImg_0808c き、伊勢大橋の架け替え工事現場の盛土にいたペアではないかと思えます。今日も、一時、その工事現場の方に行ったりしていました。工事現場もよく見たのですが、巣があるかどうかまでは確認できませんでした。それにしても、コチドリの鳴き声の大きさ。体の大きさ(小ささ?)にはまったく似つかわしくなく、遠くまで響きます。

Img_1428c  親水広場を歩いているとき、初めて見る昆虫。チョウなのか、ガなのか、その時点では分かりませんでした。「ポケット図鑑 日本の昆虫1400 ①チョウ・バッタ・セミ(文一総合出版)」で調べてみると、ホタルガというガの仲間のようでした。リンク先の昆虫エクスプローラーには、「黒地に、1本の太い白帯が印象的なガ。頭部は赤く、触角が立派で、何となく悪魔っぽい雰囲気を持つ」とありますが、まさにその通り。

Img_0844c  河口堰、今日は、コアジサシの姿はまったく見られませんでした。子育て期間でしょうから、近くにいれば、餌を取りに来ないということは考えられません。若干の不安を持ちつつ、長島町内某所その1へ。先週(6月13日:M池公園でカイツブリのヒナと、カワセミ……コアジサシはいなくなってしまい、残念)、姿を消してしまっていましたが、今日もコアジサシの姿はありませんでした。もうここで営巣することは放棄したと考えざるを得ません。

Img_1498c  しかし、某所その1では、コチドリが3羽いました。そのうち1羽は、卵を抱いているのが確認できました。右の写真をご覧くImg_1502c ださい。トリミングしてありますが、卵も写っています。コアジサシは、一度に3~4個の卵を産むそうです(こちら)。抱卵期間は24~25日、生後24~29日ほどで飛べるようになるといいます。定期巡回スポットからは外せません。

Img_0847c  某所その2。ここにもコアジサシはいませんでした。その1同様、営巣は放棄されたと判断しなければなりません。残念でImg_0850c す。ここは、先々週見たときにはヒナもいたからです(6月6日:某所でコアジサシのヒナを確認)。代わりにはなりませんが、この場所の北の端にケリが1羽いました。ケリはこの1羽だけで、他にはいません。今年は、ケリの巣は長島町内でチラッとは見たものの、ヒナは見られないままで終わりそうで、とても残念です。

Img_0916c  そして、弥富市内のM池公園へ。この頃にはかなり気温も上がって、蒸し暑くなってきました。M池公園を一周すると、2㎞Img_1537c 以上あります。かなり汗を掻きました(笑)。カイツブリたちは元気でした。成鳥は、合計15羽を確認。営巣している巣は8ヶ所、空っぽの巣(発泡スチロールだけという状態)は1ヶ所。巣を作りかけというところが1ヶ所でした。ヒナは、4羽ないし5羽を確認。もう少しいるように思われますが、双眼鏡などを持っておらず、カメラの望遠で見ていますので、不確実なのです。

Img_0932c  中之島の南にある巣では、たぶん4羽のヒナがいます。ほぼ間違いはないと思います。中之島の南側の水辺にある遊歩道までImg_1633c 降りて、写真を撮りますが、それでもけっこう距離があり、4羽がハッキリと写ったところは撮れていませんでした(右の写真をよく見ていただくと、4羽いるのはお分かりいただけると思います)。

Img_0952c  あれこれ撮って見たものの、なかなか満足できる写真はありません(苦笑)。スキルが不足しているのと、Img_0871c タイミングが合わないためでしょう。う~んまた行かなくてはという気がしてきます(微笑)。他の巣の写真もあとでよく見たら、ヒナが写っていたものがありますが、これはもっと遠くて、逆光気味の位置でしか撮れず。ますます、もう一度行かなくてはと思ってしまいます。

Img_1551c  M池公園の西にある水田には、アオサギと、ゴイサギがいました。ゴイサギが昼間から、こういうところにいるのは珍しい気Img_0866c がします。アオサギは写真を撮ろうとしただけで、サッサと逃げます。左の写真は、遠くに逃げたあとのもの。ゴイサギはしばらくじっとしていましたが、耐えられず逃亡。1羽しか気づいていませんでしたが、2羽がいました。大型のサギの方がすぐに逃げる気がします。

Img_1556c  蓮田では、オオヨシキリが1羽。ただし、ちょっと証拠写真という感じ。蓮は、葉がかなり茂っては来ていましたが、花はまImg_0885c だまだ先という感じ。オオヨシキリは、このあと、もと花菖蒲園あたりでも3羽ほど見ました。公園の北の端では、モズの幼鳥が賑やかでした。

 コアジサシがいなくなってしまったのは残念ですが、まぁそれなりに成果はあったかと思います。

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2019年6月19日 (水)

連勝中(微笑)

Dscn1222c  水曜日、江戸橋での非常勤の仕事の日であります。お陰様でというべきか、一部のご期待を裏切ってというべきか、10連休明けは、晴れが続いています。現在7連勝中です。調子に乗りすぎると墓穴を掘りかねませんが、勢いには乗りたいと思っています。お世話になっている助手の先生も、「センセイ、今年は去年と違って、絶好調ですね」とおっしゃっています(微笑)。今日で9回目。試験を除けばあと5回の授業。天気だけでなく、中身も充実させましょう。今日は、DVDでカウンセリングの場面や、さまざまな技法がどのように使われているかを確認するという内容でした。

Dscn1227c  さて、授業の前に非常勤講師控え室でパソコンがきちんと動くか確認したり、出席票を準備したりしていたら、南側の窓の外でモズの鳴き声が聞こえてきました。しばらく鳴いているので気になって外を見たら、すぐ近くにいました。コンデジ写真ですし、サッカーのゴールネット越しですから、これでもよく撮れたと思います。いつぞやはヒバリがいました。ツバメの巣もありますし、「バードウォッチングができる学校」です(微笑)。そのツバメの巣の話し。非常勤講師控え室の前の巣、今年は来ていなかったのですが、最近ツバメが来ています。世間一般からすると遅めですがヒナの誕生を期待します。校舎棟の2階にできた巣も順調に卵を抱いているようです。来週、写真を撮ってこようと思います。

Dscn1219c  通勤途中、電車からあれこれ眺めたり、歩きながら咲いている花を見たりするのは、ささやかな楽しみです。最近は、水田にサギの仲間がいるのをよく見かけるようになりました。まぁ、写真を撮るという芸当まではできません。近鉄名古屋線・塩浜駅と北楠駅の間、鈴鹿川の南の水田では、今年もたんぼアートが行われています。楠まちづくりコミュニティが行っているもので、今年は5月18日に田植が行われたようです。6月29日には見学会があるそうです(こちら)。高所作業車から見られるそうです。撮った写真からは「国体」の文字が見えます。来年、三重県でとこわか国体が開かれますので、そのPRかと思います。

Dscn1234c  その他今日目だったのは、アガパンサスの花。桑名駅まででも、江戸橋駅からでも通勤経路にあるお宅何軒かに咲いていまDscn1237c す。今日の日中はやや蒸し暑い感じでしたが、清涼感のある花がたくさん咲くところが良いと思います。

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20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完)

190609jrwalkingkameyama2 6月9日のJRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりImg_0067c_1 を訪ねて」、その4になりました。今回こそゴールの予定(笑)。亀山城跡にいろいろなものがありましたので、その続きから。

Img_0014c  多門櫓から西にある亀山神社に向かう途中、左手(南側)には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形Img_0016c (おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります(pdf)。ちなみに、左の写真の門は、「大久保神官家の棟門」です。余談ですが、高校時代、体育の授業で剣道がありました。剣道部員の同級生が素人相手にボコボコにしてくれましたので、それ以来、懲りて、自分ではやろうなどと夢にも思ったことはありません(笑)。

Img_9898c_1  亀山演武場と、山崎雪柳軒に関連して、ますみ児童公園から多門櫓に行く途中、北側に「山嵜雪柳翁遺剣之碑」が建っています。明治4(1871)年の廃藩置県後、亀山演武場は雪柳軒に下賜され、武術の指導を続けましたが、明治9(1876)年には廃刀令が出されるなど、その存続の苦労は並大抵なものではなかったようです。雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行い、さらに演武場の維持運営のために門人有志と「赤心社」という組織を作っています。明治15(1882)年、演武場は赤心社により旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移転しますが、雪柳軒は明治26(1893)年9月5日に故あってそこで割腹自殺してしまいます。明治32(1899)年10月、門人たちによってこの「山嵜雪柳翁遺剣之碑」が建立されます。表碑文は西郷従道の書で、碑の下には自害した際の短刀が埋められたといいます。

Img_0024c_1  演武場の門の脇には、燈籠と石碑。燈籠には、「演武場中」とあります。左手前は、「鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)句碑」。「くぐり門 押せば開くなり 寒げいこ」とあります。京都の元大日本武徳会武道専門学校長・鈴鹿登の作品から、演武場にふさわしい句を選びそれを石に刻んだといわれています。「野風呂」は鈴鹿の雅号。昭和43(1968)年春に亀山演武場開場満103歳を記念して建てられた句碑です。

Img_0065c  多門櫓の西下には、「明治天皇亀山行在所」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東Img_0051c 町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史席に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ、亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_0061c  明治天皇亀山行在所と、多門櫓の間には、「与助井戸(よすけいど)」があります。これは、亀山城を築く前にあった与助とImg_0012c_2 いう鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。もう一つ、行在所の北に石碑があったのですが、慌てて写真を撮ったせいもあって、読めず仕舞い。ネット検索でも、今のところ何も見つけられていません。記憶、記録のため、載せておく次第。

Img_0091c  多門櫓の北、「伊勢亀山城」の説明板の北にあったのは、「黒田孝富遺剣之碑」。黒田孝冨(くろだたかとみ)は、天保5(1834)年、亀山藩士・黒田嘉治の子として生まれました。家老・近藤織部(こんどうおりべ)(鐸山)の抜擢を受けて広間役となり、江戸に出て、儒学を藤森弘庵に学び、諸藩の勤王派と交わった後、帰藩して尊王攘夷を説きます。その後、文久3(1863)年に京都に出て、公武の間を取り持ち、とくに三条実美の信任を得て、三条邸の警衛に任じられています。八月十八日の政変後は、江戸に出て水戸藩の武田耕雲斎らと意見交換し、これを幕府に咎められて国許に幽閉されました。明治後、勤王の大義を唱導し、郡代奉行として藩政改革に力を尽くしたものの、反対派に刺殺されました(明治元(1868)年)。

Img_0072c  このあと、亀山中学校と亀山市役所の間にある石坂を少し下ってみました。多門櫓の東に石碑が2つ。まず、左の写真のものは、「鐸山近藤君碑」。鐸山は、上記の黒田孝富のところで出て来た、近藤織部。近藤は、文化10(1813)年、亀山生まれ。鐸山は雅号。詩を梁川星巖(やながわせいがん)に、国学を鬼島広蔭(きじまひろかげ)に学び、佐々木弘綱井上文雄、藤森弘庵らと交りました。嘉永3(1850)年、家老職に就きます。文久3(1863)年、将軍・家茂の上洛にしたがい、京で三条実美と会い、黒田孝富に意を含めて諸国の志士を結んで他日を期しました。朝廷の親兵設置には、藩士9名を選抜して送りますが、これを幕府に咎められ、黒田孝富とともに蟄居させられます。明治元(1868~年、赦されて藩政に復帰するものの、保守派によって再び幽閉。明治2(1869)年、亀山藩大参事に任じられました。明治23(1890)、東京で没。

Img_0076c_1  「鐸山近藤君碑」のすぐ南には、「飯沼慾斎生誕之地碑」があります。飯沼慾斎(イイヌマヨクサイ;天明2(1782)~慶応元(1865)年)は、江戸末期の医者・植物学者。亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となりました。その後、京都で医学を修め、さらに江戸へ出て蘭学を学び蘭方医となっています。宇田川榛斎(しんさい;蘭学者、医学者)・小野蘭山(本草学者)らに師事。50歳で隠居した後、植物学などの研究に勤しみ、日本で最初のリンネ分類による「草木図説」を執筆しています。亀山出身ではあるものの、その活躍は三重県外でしたので、県内には関連資料はあまりないといいます。

 さらに坂を下り、「池の側(もとの外堀)」までいくと、「石井兄弟敵討ちの碑」があったのですが、そこまで思いが至らず、「飯沼慾斎生誕之地碑」を見て満足してしまい、定められたコースに戻ってしまいました。残念。この「石井兄弟仇討ちの碑」は、延宝元(1673)年、小諸藩(現・長野県)藩士・石井正春が養子の赤堀源五衛門に殺されたことに端を発し、正春の遺児4人のうち二男と四男が、赤堀が亀山藩に仕えていることを知り、29年の歳月をかけて元禄14(1701)年に亀山城下で討ち果たしたという故事に因みます。この仇討ちは、当時、「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎や講談などに取り上げられたそうです。碑は、昭和7(1932)年、亀山保勝会によって建てられています。

Img_0102c  さて、亀山城跡を見終えて、13時20分過ぎ。スタートからは、7.2㎞。コースマップに示された亀山駅の時刻表を見ると、13時59分に臨時快速がありますので、これに間に合うようゴールしたいと思い、駅に向かいます。亀山市役所の北側を歩いていると、「姫垣外苑」という石碑が見えました。このときは意味が分からなかったのですが、雨も降っていましたので写真だけ撮ってきました。その3に書きましたように、「亀山城には、「姫垣(城壁などの上にめぐらした低い垣)」を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」の別名があった」ということで、これによるものと納得。亀山西小学校の東に当たり、かつて江ヶ室門から太鼓門までの城内路を踏襲した街路を平成14(2002)に整備したといいます。何とも優雅な名前。天気がよければ見に行ったのに。

Img_0103c  姫垣外苑から150mほど東へ。江ヶ室交番前の交差点に来ます。旧東海道は、写真奥から来て、ここで左折(写真では右Img_0109c_1 へ)。さわやかウォーキングのコースも、ここからほんのわずか(150mほど)、また旧東海道を歩きます。亀山市シルバー人材センターのところでは、枡形が残っていますが、このすぐ先で、「でころぼ坂」を降ります。

Img_0114c  こちらがその「でころぼ坂」。コースマップを最初に見たときから、「いったいどういう由来の名前?」と思っていましたImg_0115c が、現地には説明は何もありません。帰ってから検索したところ、亀山市歴史博物館のサイトの昔話のページにありましたが、正しい由来は分からないようです。昔からこの呼び名だったそうで、「でこぼこ坂」や「でくのぼう坂」がなまったものだといわれます。「でくのぼう」は「木偶の坊」で、木でつくられたあやつり人形。「どちらにしてもなぜこの名前なのかはわかりません」となっていました。坂は、遍照寺の脇を通って、もとの国道1号線まで200m足らず。階段と坂道が交互になっています。雨に濡れて風情があるのですが、この年になりますと、滑らないよう気をつけねばなりません(苦笑)。

Img_0123c  もとの国道1号線(現在は県道565号線)を越え、スタートから8㎞地点過ぎに道標。「右停車場道 左阿野田椋本」とあります。停車場は、亀山駅。阿野田は、亀山駅の東南あたりの町名。椋本は、津市芸濃町にある地名(亀山駅からは南西に直線で4~5㎞ほど行ったところ)。調べてみると、田中音吉が、大正3(1914)年に寄附したものでした。田中(弘化5(1848)年~大正5(1916)年)は、亀山の出身で、米穀・製茶業を営んでいました。明治19(1886)年、前橋や八王子で蚕糸業を視察し、20(1887)年から郷里の三重県亀山で製糸業に着手しました。のちには、機械伝習所の設置や従業員の教育にも力を注ぎ、30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。彼は、あちこちに道標を寄附しています。田中音吉の道標は、石薬師宿でも見ています(2019年4月20日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編))。こちらによれば、大正3(1914)年2月から8月にかけて、総数483基の「道示標」を「代金五百七拾七円六拾銭」かけて設置したといいます。亀山市内だけでも61基残っています。今でいえば社会貢献ということなのでしょうが、昔の実業家というのは、すごいことをするものです。桑名の諸戸家も、「諸戸水道」を設置し、町民が利用できるようにしています。

Img_0126c_1  最後まで雨の中、13時35分にJR亀山駅にゴールできました。スタートから8.2㎞。結局、布気皇館太神社を出た11時20分頃Img_0130c_2 からずっと雨でした。天気に関しては、ちょっと見込み違いをしました。雨の中を歩いたのは、3月10日の近鉄ハイキング以来、2回目(20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。このときも、降り出すのはもっと遅いだろうと思っていました。折りたたみ傘は持っていたのですが、リュックのカバーなど雨の支度もしておかねばなりません。

Img_0141c_1  今日で、JRさわやかウォーキングのスタンプは、7個目。11月末までに10個達成も視野に入ってきました。が、7,8月は暑いので、JRさわやかウォーキングはありません。9月以降、計画的に参加しようと思います。また、この日は、バッチと、「TOICAエリア拡大記念」ということでICカードで乗車してきた参加者限定でフリクションボールペンがいただけました(先着1,000名)。

Img_0150c  予定通り、13時59分の四日市行き臨時快速電車に乗車して帰途へ。四日市着は14時34分。四日市市発の名古屋行き普通電車Img_0159c が、14時42分にあります。これに乗って桑名には14時57分に到着。いずれも空いていて、座れました。¥670。雨が降ったのはいただけませんが、この料金で(往復で、¥1,340)半日以上楽しめるのは、ありがたいこと。

Img_0174c  ALKOOのデータは、左の写真の通り、18,935歩。ウォーキングで8.2㎞、自宅から桑名駅往復が1.8㎞で合計10.0㎞。現地で歩き回ったのを考えても、いつものように、ALKOOの距離は、やや過大評価と思えます。

Img_0181c  亀山駅で電車を待っている間にキオスクを覗いたら、深川屋の「関の戸 お茶の香」6個入り(¥600)を売Img_0188c っているのを見つけ、これを今日の土産に。関の戸は、関宿(亀山より1つ西の宿場町)の名物。この関の戸は、昔、鈴鹿で働いていた頃からの大好物。赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした一口大の餅菓子。「お茶の香 関の戸」はこれに亀山茶の粉末がまぶしてあります。オリジナルの関の戸よりも、これの方がよいかも。お茶の苦みと餅皮の食感、こしあんの甘味の組合せがよい感じです。

 JRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも、7月、8月はお休み。今週土曜日(6/22)には、近鉄で「潮風薫るハマヒルガオと夏のおとずれを感じて」があります。天気が持てば参加したいと思っています。去年、このコースは5月に開催されたのですが、そのときはハマヒルガオはほとんど咲いていなかったので、リベンジしたいのです(名古屋線北楠駅~塩浜駅)。近鉄は、6/24にも、「伊雑宮と日本三大御田植祭」が予定されているのですが、場所が志摩線・志摩磯部駅。鳥羽と賢島の間。特急を利用しても、1時間40分ほど。運賃と特急券で合計¥2,940。天気もですが、時間、費用も嵩みますので思案中(苦笑)。その後、近鉄は6月30日にも津駅であるのですが、この日はあいにく、研究会。

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2019年6月18日 (火)

今日は喫茶店へ散歩(笑)……ツバメのヒナたちの訓練風景も

Img_0761c  午前中はよく晴れていましたが、午後からは雲が広がってきています。今日もいつも通り、散歩に出たものの、住吉神社から九華公園に行って、ツバメのヒナを見ていると、Mさんから連絡をいただき、公園側の珈琲館Hへ。そこでたっぷり2時間以上、おしゃべり。「ジジイなのに、よくそんなにしゃべることがあるな」といわれそうですが、久しぶりだったこともあって、話に花が咲きました(笑)。なので、結局、歩いたのは3.5㎞です。

Img_1345c  九華公園では、昨日と同じく、巣立ったツバメのヒナが親に連れられてやって来て、独り立ち訓練をしていました。今日は、辰Img_1346jpgc 巳櫓南の吉之丸堀の上空の電線が待機場所。辰巳櫓の上から見ると割りと近いのですが、逆光の位置。下に降りると、デジイチの250mmズームではちょっと遠いと、なかなか難しいロケーション。30分ほど粘ったものの、これはというものは撮れませんでした。Mさんから連絡をいただき、これ幸いと喫茶店へ(爆)。

Img_1325c  こういうのも撮れたのですが、逆光で何だかよく分からない写真。コアジサシのその後や、M池公園のカイツブリのヒナも気になりますし、もう少ししたら、万助溜公園の蓮やチョウトンボもと思ったりしますが、ツバメのヒナたちの訓練風景も、そうそう長い間は見られません。天候も眺めつつ、考えましょう。明日は、江戸橋での仕事です。

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2019年6月17日 (月)

20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ

190609jrwalkingkameyama1_1  6月9日のJRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」もその3となりました。雨は相変わらず降り続いています。実測ルートマップ、今回は2枚。JR亀山駅を出て西へ、時計回りに歩き、またその1のマップの範囲に戻って来ています。亀山公園内で開催されている花しょうぶまつりに向かうのですが、その途中で、まずは、亀山古城跡。

Img_9809c  こちらがその亀山古城(こじょう)跡。亀山市若山町にある比高差15mの小高い山がそれ。江戸時代につくられた複数の「亀山城絵図」で「古城」と記されています。その2で触れた大庄屋・内田権四郎昌克が編集した「九々五集」には、この地方を治めていた関左近将監実忠(せきさこんしょうげんさねただ)が、文永2(1265)年に築城したと書いているそうです。以後、関氏累代の居城でしたが、元亀4(1573)年、城主・関盛信が織田信長の怒りに触れ、蒲生氏郷に預けられ、城は信長の子・神戸信孝に与えられます。天正11(1583)年閏正月の羽柴秀吉の攻略に際し、城将の佐治新助はよく防戦したものの、加藤清正・山内一豊・細川忠興などの猛攻により落城。この城は、秀吉方についた元城主・関盛信の子・一政が城主となったのですが、その一政が陸奥白河に移され、新城主となった岡本良勝が新たな城(近世の亀山城)を築くにあたって廃城にしたとされます。しかしながら、発掘調査では、このあたり周辺では明確に中世の城と見られる遺構は確認されていないそうです。

Img_9821c_1  12時半近く、スタートから6.4㎞で花しょうぶまつりの会場へ。今回で22回目。前々から一度見てみたかったものの、来たのは初めて。この6月9日(日)の10:00~15:00に花しょうぶまつりが開催されていました。この菖蒲園は、平成10(1998)年にすでにあった菖蒲園の西側に4,000平方メートルを増設したといいます。もともと亀山城の濠(ほり)跡で、以前は田んぼとして利用されていたところ。この濠に面して、北西に本丸西多聞櫓、この菖蒲園の入り口には関見櫓があったそうです。

Img_9829c_1  約4,000平方メートルの花しょうぶ園には、およそ100種類、約12,000株の花しょうぶが植えられています。手入れはよくされていImg_9831c る感じですが、かなり広いのでどこで写真を撮ろうか、迷いました。雨にもかかわらず、かなりの人出があります。あれこれ写真を撮ってきた割りには、どうも今ひとつという感じがしてなりません。

Img_9838c  斜面に段々畑のように花菖蒲園がしつらえられています。順番に見ていくと、1年目のものから、順次、2年目、3年目と植え替えてありました。花菖蒲には、「連作障害」のような現象が見られると聞きますから、これはよい工夫かも知れません(素人の理解ですから、間違っているかも知れません)。

Img_9859c  12時半を過ぎました。雨は小降りでしたが、残すのは亀山城多門櫓のみでしたし、1㎞くらい歩けばゴールというところまでImg_9862c 来ています。菖蒲畑の目の前に屋根付きのベンチがありましたので、ここでお昼にすることにします。今日は、JRさわやかウォーキングということもあって、桑名駅のキオスクでゲットしてきた「幕の内弁当」。¥450。焼き魚や、野菜の煮物なども入っていますから、コンビニの幕の内よりもよいかも(微笑)。ただし、ご飯は、コンビニ弁当の方が美味しい感じでした。

Img_9885c  いよいよ亀山城跡に入って行きますが、花菖蒲園から公園池の南を通って、かなりの高低差のある階段を上がっていくと、まImg_9889c_1 ずは「ますみ児童公園」。亀山公園の一部。ここには、蒸気機関車C58 359が静態保存されています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役(こちら)。引退した年からここにあるようです。大昔、子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中立ち寄った記憶があります。

Img_0067c_1  亀山城は、天正18(1590)年に岡本宗憲(良勝)が、亀山古城の東に築城しました。この近世亀山城の下層には、戦国期の亀山城が確認されており、中世末期の城郭を母体に築かれたと考えられています。「九々五集」によれば、築城時には、本丸・二之丸・三の丸からなり、天守もあげられていたとされます。この天守は、寛永9(1632)年に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するよう幕府から命じられた出雲松江城Img_0007c_1 主・堀尾忠晴が、間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したとされていますが、天守の規模、形状はもちろん、その位置も含めて事実関係は一切不明といいます。亀山城には、「姫垣(城壁などの上にめぐらした低い垣)」を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」の別名があったのですが(粉堞とは、姫垣や表面に白い胡粉(ごふん)を塗った簡易な塀という意味。山田木平によれば、粉堞とは姫垣をさし、白い城壁が連なる景観からの別名であるといいます(伊勢亀山城)。以上、こちらを参照。)、「粉蝶城(こちょうじょう)」と間違われたものが広く流布しています。江戸時代初頭には、上洛する将軍の休泊所として本丸御殿があったといいます。明治6(1873)年の廃城令によってほとんどの建造物は壊され、堀も埋め立てられ、現在は、多門櫓(「多聞櫓」という表現が多いのですが、亀山城ではこのように「多門櫓」と書かれています。また、多門とは長屋状の建物のことです)と石垣、土居、堀の一部が残っています(伊勢亀山城のパンフレットによります)。なお、岡本宗徳以後は、城主が頻繁に代わり、 延享元(1744)年に備中松山から石川総慶(いしかわふさよし)が入り、その後は石川氏が統治ししました 。

Img_0080c_2  こちらが多門櫓。観光案内などには南のアングルから撮った写真が載っているのですが、亀山中学校か、その南まで行かないImg_0082c_2 と撮れません。雨も降っていたので、断念。この多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9(1632)年頃に築造されたとみられます(寛永13(1636)年や、正保年間(1644~1648)とする文献もあります。この記述は、亀山市の資料によります)。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています(昭和28(1953)年)。安政束海地震(1854 年)によって大破したのですが、修理され、明治時代には、士族授産の木綿緞通工場として使われました。そのため、唯一破壊を免れ、今日に残っています。「平成の大修理」が平成25(2013)年3月に完成し、往時の姿に復原するというコンセプトの元、真っ白な白壁の漆喰となっています。

Img_9903c  多門櫓には、13時頃到着。土日、祝日の10時から16時に観覧できます。階段の上には甲冑姿の人が見えます。この多門櫓Img_9905c も、一度は訪ねたかったところです。瓦は葺き替えられ、壁も漆喰の白壁に戻されてはいますが、三重県内では、石垣の上に元の位置のまま城郭建築が残っている唯一の例です。

Img_0003  建物は、東西8間(15.8m)、南北6件(10.9m)の一重櫓で、屋根は入母屋造本瓦葺(いImg_9949c_1 りもやづくりほんかわらぶき)。建築部材から見つかった「惣武具」や「武器蔵」といった文字から、当時は武具庫として使用されていたと考えられています。たしかに「櫓」の始まりは、「矢倉」といいます。

Img_9921c

 櫓に登って、一度してみたかったことがあります。大したことではありません。むしろ「しImg_9924c_1 ょうもないこと」です(苦笑)。櫓の中から、窓を通して外を見てみたいということです。この2枚の写真は、櫓の南側を見たもの。ちょうど亀山駅の方角で、右の広場は亀山中学校のグラウンド。池は、「池の側」という名称のようです。

Img_9931c  こちらは多門櫓の内部。梁や柱は立派なもの。それに、外観に比べ、「質Img_9945c 実剛健」という印象を受けました。それにしてもというか、やはりというか、本や資料を読んでいるだけでなく、現地に行って、実際に見てみることが肝心です。百聞は一見にしかずというとおり。感心しました。

Img_0010c  多門櫓の西に亀山神社がありましたので、そちらへ。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城したImg_0027c 際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。亀山城主石川氏の祖である陸奥守源義家及び六男義時以下数世の神霊を祀っていました。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。

Img_0036c  主祭神は、源義家源義時石川義純石川家成。相殿神は、大山津見神保食神宇迦之御魂神猿田比古神天照皇大神大名牟遅命品陀和氣命伊邪那美大神市杵島姫命火之迦具土神建速須佐之男命速玉之男神(はやたまのおのかみ)、句々廼遅命(くくのちのみこと;伊奘諾尊と伊奘冉尊から生まれた。「くく」は茎、「ち」は精霊の意味で、木の守護神、菅原道真速山津見命(はやまつみのみこと;山のふもとをつかさどる神。伊邪那岐命が火の神迦具土を斬ったとき、その右手から生成した)、大鷦鷯命(仁徳天皇)、安閑天皇瀬織津比女命(せおりつひめのみこと;祓神・水神・瀧神・川神とされる女神)、天児屋根命黄泉津事解之男命(よもつことさかのをのみこと;黄泉国へ去った伊奘冉を連れ戻しにいった伊奘諾は、見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい、妻と別れることになったが、その別れ際に唾を吐いた。その唾を吐く神を速玉之男神と呼び、((両神の関係を)掃う神を黄泉津事解之男と呼ぶ)、大山咋神(おおやまくいのかみ;大年神(「とし」は穀物。稲の実りを守護する神。素戔嗚尊の子)の子)、柴垣神、天神地祇八百万神(天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国(あしはらのなかつくに)に誕生した神を地祇とする)。

Img_0040c_1  神社の境内には、稲荷社がありました。「出世稲荷」とあります。我が身は、今さら出世も何もありませんが、愚息などはひょっとしたらその見込みがあるかも知れませんので、お参りしてきました(微笑)。さらに、この記事を書くのに調べていたら、拝殿に向かって右手前に天神様もあるようでした(苦笑)。「真澂(ますみ)天神」です。前段落に載せた拝殿の写真をよく見ると、確かに写っています。雨のせいで急いだためであります。

Img_0029c  さらに、二の鳥居を潜った右手には「宝篋印塔(ほうきょういんとう;宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔。のちに供養塔,墓碑塔として建てられた)」の基礎部が残っています(市文化財)。これは、ここにあった善導寺が西町Img_0031c_1 に移転されたときに残されたものとされ、昭和26(1951)年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などとともに発見されたそうです。花崗岩、高さ53.1cm、幅76cmの基礎と、二段の答申を受ける部分からなっています。正慶5(1332)年7月のもので、亀山市内にある在銘石造品としては最古といいます。

 その3でゴールできるかと思って書き進めましたが、亀山城跡には、これらの他、復元された亀山演武場、明治天皇亀山行在所遺構、いくつかの石碑もあります。長くなりましたので、その3はここまで。

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巣立ったツバメのヒナ……ノウゼンカズラが咲き始めました

Img_0705c   今日はよく晴れています。気温も28℃近くになったようですが、北寄りの風ですから乾いていて、気持ちが良い。プチ遠征も考えたものの、風がやや強めでしたから、いつものコースへ。8時20分から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、吉津屋町、京町、寺町、田町と6.0㎞ちょうど。3時間コース。冒頭の写真は、七里の渡し跡、伊勢一の鳥居。いつもの散歩コースを歩くときは、必ず通過します。

Img_1076c_1  相変わらず鳥は少なく、スズメ、ムクドリばかり。このほか、ハクセキレイ、ドバト、カワラヒワ、シジュウカラ、カラスなどを時々見るくらImg_1088c い。スズメは、まだ親からエサをもらうヒナも見ますが、ほとんどは独り立ちしたようで、親とは離れて行動しています。パンを持ってで書けたので、スズメが集まっているところで撒いてみました。大人のスズメはすぐに寄って来て、パンくずを咥えて他へ飛んで行って食べるのですが、今年巣立った幼鳥はまだ学習していないのか、撒いたパンくずに寄ってくることはありません。こればっかりは、人間が教えるわけにも行きません。これから学んでいってもらわないと。スズメの幼鳥も、ハクセキレイも柿安コミュニティ・パークにて撮った写真。

Img_1175c  この季節、九華公園には親ツバメが、巣立ったヒナを連れてきていることがよくあります。今日も2ヶ所で目撃。これらの写真Img_1184c は、二の丸跡で撮ったもの。散策路のすぐ上にある電線にツバメのヒナが待機。時々飛び立っていくものもいましたが、4羽がいました。これだけ大きくなっても、巣にいたときと同じように、親ツバメを飲み込みそうな勢いで、笑えます。

Img_1241c_1  電線にいるヒナに親ツバメはエサを運んで来ますが、ヒナも電線で待っているものと、飛び立って空中で受け取ろうとするImg_1242c も  のと、2つのタイプがいます。親もたぶん、飛び立つことを誘導したいのではないかと思えます。飛行訓練であったり、餌をとる訓練になったりするからのような気がします。空中でエサを受け渡すシーンを狙ったのですが、今日のところはあえなく失敗(苦笑)。左の写真で向かって左出飛んでいるヒナは飛び立ってエサをもらおうとしたのですが、このときは、電線にいた方に親はエサを与えてしまい、せっかくの努力は実りませんでした。空中給餌シーンは、またの課題にします。

Img_1157c  左の写真は、奥平屋敷跡近くの電線にいたヒナが、エサのトンボをもらった直後。あまりよい写真ではありませんし、「気持Img_1232c ち悪~い!」とおっしゃる方も多いかも知れません。ご容赦ください。クリックすると拡大されますので、ご注意ください。トンボは割りとよくヒナに与えています。右は、二の丸跡の電線に捕まろうとする瞬間の写真。あたかも「バンザイ!」と叫んでいるかのようでした。

Img_1267c  ツバメの巣も定例巡回。左は、吉津屋町のお宅。3羽が変わらず元気そうでした。巣立ちも近そう。右は、田町にある商店のImg_0743c 巣。見に行ったタイミングで、巣にいたりいなかったりしますが、これまでの経験上、たぶん卵を抱いていると思います。このほか、京町の呉服屋さんの巣その2にも、親ツバメが就いていました。巣立った巣も多いのですが、もう少し楽しめそうです。

Img_1281c  こちらは、寺町商店街の交差点を北に入ったお宅。ノウゼンカズラが咲き始めました。これ、私には夏のイメージ。ノウゼンカズラが咲くと、梅雨の間ではあるものの、「夏が近い」と思えます。

Img_1215c_2  鳥がいないので、チョウやトンボでも撮ろうと思うのですが、そういうときに限ってうまく出遭いません(苦笑)。こちらはツバメを見ている時にやって来たトンボ。アキアカネか?と思うのですが、ちょっと違うような気もして、今ひとつ自信がありません。6月に羽化して、夏の暑い間は山に移動。このあたりでは御在所岳に移動することが知られています。

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