2018年9月23日 (日)

桑名七里の渡し公園で水辺マルシェ……午前中の散歩でイソヒヨドリのオス、コサメビタキ(?)、モズのメス

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 今日の午後4時まで、近くの桑名七里の渡し公園で桑名ほんぱく「水辺マルシェ」を開催Dscn0297c していました。昨日は行けませんでしたので、今日3時になって娘と覗いてきました。昼前に散歩をしているときに出会った知人からは「賑わっているよ」と聞いていました。
Dscn0312c_2 移動販売者や、キッチンカーの他、テントなどでアクセサリー、焼き菓子、古着などの出店が行われていました。終わりがけに行ったのに、けっこうな賑わいでした。近くで(徒歩2分!)、こういう催しがあるのはありがたいことです。
Dscn0296c お目当てはこちら。大内山ソフトクリーム。ローカルでは有名ブランドであるDscn0299c 大内山牛乳を使ったもの(大内山酪農組合、三重県度会郡大紀町大内山)。ノーマルサイズのコーンが¥400。味は濃厚。けっこう暑かったので、美味しくいただきました(微笑)。
Dscn0302c 娘のチョイスは、多度グリーンファームの「けずりイチゴ」。¥600なりと、よいお値段。凍らせたイチゴを削って、練乳をかけたもの。ソフトクリームも、こちらもシェア。
Dscn0308c もう一つ、昨日から気になっていたものが出店していました。こちらの「ラジDscn0314c オ焼」。昨日のJRさわやかウォーキングを終えて、実家に向かうバスの車窓から、農産物直売所の駐車場にキッチンカーで来ているのが見えたのです(微笑)。今日のマルシェでも発見! 家族の土産に買ってきました。ラジオ焼は、たこ焼きの元祖だそうで、牛スジ肉を具材として焼いたものでした。まったりとコクのある味わいという感じでした。
Img_3440c さて、散歩の方は、8時スタート。猛暑の頃の習慣がそのまま根付いていImg_3438c ます。スタートの時点で、桑名七里の渡し公園でマルシェの準備をしているのが見え、気になっていました。散歩は、いつも通り、住吉神社、九華公園、京町、寺町と5.1㎞。何故か3時間もかかって歩いてきました(例によって、油を売っておりました)。
Img_3395c まずは、こちら、イソヒヨドリのオス。マルシェの準備をしているところを覗いていたら、鳴き声がしてきたのです。探したら、すぐ南の住吉ポンプ場の屋上にいました。オス2羽が、割と近いところに。しばらく前は、七里の渡し跡あたりで何度か目撃しています。
Img_3402c 揖斐長良川の中洲には、ダイサギが2羽。いつもアオサギが集まるところImg_6099c ではありません。そして、三の丸公園では、シジュウカラが2羽。
Img_3409c 柿安コミュニティパークに来たら、今度はモズの鳴き声がどこかの木の上から聞こえて来ました。探し回りました(微笑)。しばらく前からこのあたりには、メスのモズがやって来ていました。堀の間にある水門のところの木にいるのを見つけたのですが、写真が撮れません。困っていたら、電柱の上に移動してくれました。
Img_6130c 九華公園、鎮国守国神社では、ヒガンバナが花盛り。もう十分撮ったとはImg_3428c 思いつつ、それでもいいアングルはないかと思ってしまいます。パターンを変えるのは難しいのですが、少しだけ工夫(笑)。
Img_6151c アオサギさんは、定位置に。ブロ友のひらいさんの言葉を借りれば、「安心の場所」になっています(いつ行ってもそこにアオサギがいてくれるという意味で、安心なのです)。
Img_6143c そして、今日はこちらが登場。コサメビタキ、エゾビタキ、サメビタキのどImg_6148c れか(笑)。神戸櫓跡のベンチで休んでいたら登場したのですが、逆光気味のところで、模様がよく分からない(苦笑)。胸のところに明瞭な反問がある訳ではなさそうですから、エゾビタキではなさそう。嘴の印象からは(嘴も基の部分が黄色くて幅広い印象)、コサメビタキの可能性大と思っています。
Img_3435c 「油を売っていた」のは、九華公園にて。管理人Sさんや、散歩友達Oさん(Oさんには夏前以来)などとお目にかかったため。帰りは、お彼岸の中日でもあり、寺町で桑名別院・本統寺にお参りしてきました。明日は、近鉄ハイキングが伊勢若松駅であり、大黒屋光太夫ゆかりのコース(ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!)。曇りという予報ですが、出かけたいと思っています。
 昨日のJRさわやかウォーキング、写真整理がまだこれから。お待ちください。

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2018年9月22日 (土)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】

Img_3002c 朝方まで雨でしたが、8時過ぎには上がってきましたので、予定通り、JRさImg_3010c わやかウォーキングへ行ってきました。今日は、「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」です。JRさわやかウォーキングですので、JR紀勢線・津駅をスタート、宗宝院、三重県立博物館(MieMu)、勝楽寺、下津醤油、一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館がゴール。コースマップ上は5.9㎞です。本日はまだ実測ルートは描いていません。帰りは、JR紀勢線・一身田駅から津駅に戻り、家内の実家へ行ってきました。津駅スタートは、10時。

Img_3004c こちらが今日のマップ。一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館は、今年1月のお七夜の時から数えてたぶん5回目。しかし、お彼岸でもありますから、専修寺にもお参りしようということです。今日の小生の最大の目的は、県立博物館。現在、松浦武四郎の展覧会が行われていますし、ミエゾウ全身復元骨格が常設展示されています。これらが見たいと思ったのです。
Img_3033c 最初の立ち寄りスポットは、白龍山宗宝院という曹洞宗のお寺。慶長9(1604)年、当時の津城主・富田信孝の子息千代丸(享年12)の菩提を弔うため、現在の津市栄町に創建されたお寺。寺名は、千代丸の法名からとられたもの。戦災に遭い、一切を焼失。昭和45(1970)年に本格的な本堂も完成したものの、都市計画事業の対象となり、平成になってここ上浜町に移転してきました。
Img_3072c 宗宝院の裏手からすぐに、三重県立博物館(MieMU、みえむ)の敷地に続Img_3075c_2 いています。ここは前から一度来てみたかったところですが、ようやく念願が叶ったという次第。右は2回展示室のフロアにある「ミエゾウ」の復元骨格模型。まずはこれが見たかったのです。「ミエゾウ」とは、その化石が三重県内で最初に発見されたことから、世界中で通用する正式な学名を「Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)」と名づけられた太古のゾウです。
Img_3086c 松浦武四郎展は、その生誕200年を記念したもの。松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888))は、現在の三重県松阪市に生まれ、幕末の樺太北海道開拓の先駆者・大台ヶ原開拓者です。「北海道の名付け親」とよばれる武四郎の北海道踏査の軌跡や、幕末の志士・文人たちとの幅広い交友、当代随一の情報収集家・古物蒐集家としての魅力が展示されています。11月11日まで。大人は¥800(今日は、ウォーキング参加者割引で¥700)。博物館入り口までで2㎞。
Img_3145c 博物館を出て一身田の商店街や、高田本山専修寺へ行く途中、勝楽寺という真宗高田派のお寺にも立ち寄ります。お彼岸ですので、宗宝院も、ここも本堂の扉は開けていただいてあり、ご本尊を拝むことができました。勝楽寺でほぼ4㎞。
Img_3177c 一身田の寺内町に向かう前に若干東に回って、伊勢別街道を通って、下津醤油さんに立ち寄り。ここは、以前、近鉄ハイキングでも来ています。下津醤油で5.2㎞ほど。西に500mほど行くと、一身田寺内町に入っていきます。
Img_3194c 商店街は、何度か回りましたので、ゴールの一身田寺内町の館へ直行Img_3357c (笑)。JRさわやかウォーキングのキャッチフレーズは、「駅がスタート、駅がゴール」ですが、今日はゴールは駅ではありません。ここでさわやかウォーキングのスタンプ6個目をゲット。近鉄ハイキングに比べかなりのスローペースですが、桑名近郊ではなかなか行われないのです。
Img_3201c 寺内町の館は、高田本山専修寺のすぐ近く。12時半になって到着。左はImg_3279c 山門。国指定重要文化財です。御影堂と如来堂(いずれも昨年、国宝に指定)にお参りしたのち、家内の父親のお骨が収めてありますので、納骨堂にも行ってきました。これまでに見逃していた大玄関と対面所も見てきました。ここの境内で、失礼してお昼の弁当タイム。
Img_3291c JR紀勢線・一身田駅には13時20分着。伊勢鉄道・東一身田駅でもよかっImg_3294c たのですが、紀勢線で一身田駅から津駅は乗車したことがありませんでしたので、こちらへ。津駅までは、1駅で¥190。13時34分着とたった3分でちょっともの足らず。実測ルートはまだ描いていませんが、7㎞以上かと思います。
Img_3318c ここから家内の実家へ行きます。バスは、津駅が始発で、久居駅を経由Img_3323c します。迷ったのですが、久居駅まで近鉄で行き、バスに乗ることにしました。最終的には、15時前に実家到着。榊原温泉の湯で疲れを癒やしてきました(微笑)。
Img_3354c 実家から戻ったのが遅くなりましたので、写真やルートの整理がまだ十分できていません。予告編にしてもかなり端折っていますが、今日のところはこれくらいにて。いつものように、追々、本編を書くことにします。
【付記(9/23)】
20180922jrwalkingtsu1 実際に歩いたルートをキョリ測に描いた図です。建物や敷地内は、省略したところがあります。実測ルートで7.5㎞でした。キョリ測のデータは、こちらでご覧いただけます。高低差は、最高が27m。これは博物館内です。津駅を出てから博物館までは20m以上を登ったことになります。

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2018年9月21日 (金)

20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その4)……大矢知興譲小学校(大矢知陣屋跡)、八風道の道標、丸井屋老舗を経て大矢知駅にゴール(完)

 この2日ほど雨続きで、ちょうどよいとばかりに9月15日の近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」の記事を書いています。約6キロと短いハイキングですが、その4と、思わぬ長編になりました。今日の記事でゴールインの予定です。

20180915kintetsuhikingkasumigaura4 その3で、豊栄稲荷神社、長倉神社、照恩寺について書きました。照恩寺を出たところで距離は5㎞の手前、時刻は12時前になっています。今日のコースマップを見たとき、四日市市立大矢知興譲小学校のところを通ることが分かり、これは是非とも立ち寄って見て、確かめないと思ったことがありました。
Img_5468c たぶんこちらが、大矢知興譲小学校の正門。その名前からして何か由緒が180714kintetsuhikingtomida ありそうな気がします。7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」の時、近くを通っています(20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!)。右は、そのとき歩いたルートマップ。伊藤手延製麺所から大矢知興譲小学校の東を通って、大矢知駅を回っています。このとき、大矢知の歴史について少し調べたのですが、もともと桑名藩領であったものが、江戸時代末に忍藩領になり、そのとき、代官所がこの小学校あたりに置かれたというのを知ったのです。
Img_5502c  大矢知の地名の由来は、朝明川流域で最初の大きな谷地を形成することによるといわれれます。古くは朝明郡に属し、中世には、大矢知御厨がありました。江戸時代には、大矢知村は桑名藩領でしたが、文政6(1823)年武蔵国忍藩領、天保13(1842)年に幕府領(近江信楽代官所支配)、安政元(1854)年に再び忍藩領となっています。写真は、近くの八風道(大矢知郵便局の角から菰野方面をみたもの)。
 この経緯を少し詳しく見ますと、文政6(1823)年、桑名藩主・松平忠堯(ただたか)公(奥平系)が、武蔵国忍藩へ国替えとなりました。しかし、忍藩では桑名に比べ石高が少なく、それを補うため、北勢四郡のうち72ヵ村(松寺、蒔田、西富田を除く)4万3,000石が忍藩領になりました。そのとき、ここ大矢知に陣屋が置かれ、忍藩が支配したのです(これはあくまでも定説であり、支配拠点は、時代によって変わったという指摘もあります。それについては、こちらを参照)。天保13(1842)年、いわゆる「天保の改革」にともなって一時幕府領になったものの、嘉永7(1854)年に再び忍藩領になっています。
Img_5480c さて、その陣屋跡を示すものがないかと思って、大矢知興譲小学校前の交差点を左折して、上記の正門を見たのですが、何もありませんでした。元のコースに戻ったら、交差点からすぐ北にこの立派な校門があったのです。ちょっと拍子抜け(笑)。
Img_5476c 校門の奥には、二宮尊徳像があります。勝手には入れませんので、近くでは見られませんでしたが、台座には、「勤倹力行(きんけんりっこう)」と刻まれています。仕事に励みつつましやかにし、精一杯努力するといういみ。「勤倹」はよく働き、つつましやかにすること、勤勉に働き倹約することであり、「力行」は努力して仕事などに励むことです。この「勤倹力行」は二宮尊徳の教えの一つで、他には「積小為大」や「至誠」といったことばが刻まれていることもあるそうです(こちら)。
Img_5483c この校門の脇に、「忍藩大矢知陣屋(想像図)解説」がありました。代官Img_5484c 所を中心に郡代屋敷、目付詰所、米蔵、足軽長屋などがあり、羽津用水で囲まれている様子が描かれています。表門が、現在の小学校正門にあたります。西側には観音山、妙見山が見えています。
Img_5486c 明治3(1870)年に忍藩は、藩士のために興譲堂を開設しました。忍藩の進修館の分館とも言える藩学校の興譲館を大矢知陣屋に興しました。忍藩の進修館の分館とも言える藩学校ができたということです。明治5(1872)年の廃藩置県にともない、ここは懲役場(刑務所)となったのち、明治9年(1876)年の伊勢暴動で焼失。明治13(1880)年、興譲学校として再建され、現在に至っていると説明にあります。今の大矢知興譲小学校の名称も、これに因んでいるのではないかと思います。小学校のサイトのトップページには、「興譲の精神を育むために/ めざす学校の姿 「興譲」の意義を受けつぐ"開かれた学校"」とあります。
 大矢知興譲小学校の校名の由来 には、次のような説明がありました:
『興譲』は,古書「大学」の一節, 「一家仁 一国仁 一家譲 一国興譲・・・」に基づく教育の道を諭したものが出典
 こちらの「Web漢文大系」にその「大学」の一説が載っています。大略、次のような意味と思われます:
仁を以て自らの一家を行き届いておさめ、家族のすべてを感化して各自の明徳を明らかならしむるようにすることができる以上、一国を挙げて、仁に向かって感奮させ興起させることが必ずできるはずであるし、またもし謙譲の徳を以てわが一家を行き届いておさめられるならば、一国を挙げて、その徳に向かって感奮させ興起させることが必ずや期待できよう。
Img_5494c 忍藩大矢知陣屋跡を確認できて満足(微笑)。ゴールも近くなりましたので、元気も出て歩き続けます。大矢知興譲小学校から200mほど、三岐鉄道三岐線の踏切を越えたところで、八風道に出ます。大矢知郵便局のある交差点で、道標がひっそり建っているのを発見。ここは、7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」の時も通ったのに、そのときは気づきませんでした。写真では、止まれの標識の向こうにある民家の角に立っているのが見えます。
Img_5496c カーブミラーに隠れて、写真が撮りにくかったのですが、西側(左の写真)Img_5497c には「右 四日市ミち 左 くわなミち」と、南側(右の写真)には「左 たどミち」とあります。北側を確認するのをすっかり忘れていたのですが、こちらのサイトによれば、「右 こものミち」とあるそうです。いけません、道標、石碑、石柱のたぐいは、回りをぐるっと一回りして確認してこないと(苦笑)。
Img_5500c 碑陰(東側)には「安政三年 辰七月なつ  御蔵米問屋 石仙蔵 車力中」とありました。安政3年は1856年。上記のサイトによれば、道標は大矢知陣屋の年貢米を扱う車力衆により立てられたものだそうです。当時は、米を運ぶ大八車の往来も盛んだったのでしょう。現在は、十字路北東に立っていますが、もとは北へ抜ける道はなく、羽津の金場町で東海道と分かれた濃州道と八風道の交差する三差路であり、この道標は、三差路中央に立っていたといいます(『よっかいち歴史と文化財散歩』より)。
Img_5508c 交差点から八風道へ入り100mで、この日最後の立ち寄りスポットである丸井屋老舗さん。嘉永年間(1848~1854年)に創業だそうです。ここでお茶の接待をいただきました。栗きんとん、団子、季節の和菓子など魅力的で、相当迷いましたが、結局何も買わず。ちなみに、栗きんとんは1個¥270でした。
Img_5511c 12時ちょうどにゴールの三岐鉄道三岐線・大矢知駅に到着。丸井屋老舗Img_5526c さんからは、200mほど。コースマップ通り、5.9㎞でした。要した時間は1時間50分。スタートからほぼずっと霧雨が続いていましたが、無事にゴールできてホッとしました。
Img_5523c ちょうどうまい具合に12時17分発の近鉄富田行き電車がやって来ましImg_5537c た。これを逃すと、次は13時12分まで電車はありませんでした。近鉄富田までは1駅、12時21分着。三岐鉄道の切符は、前にも書きましたが((20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!))、今でも硬券です。桑名まで¥430。
Img_5528c 全くの余談ですが、帰りに乗ったこの三岐線の電車は、元は西武鉄道を走っていたもの。 平成3(1991)年6月に三岐鉄道に譲渡されたそうです(こちら)。
Img_5530c 三岐線は近鉄富田駅に乗り入れています。近鉄名古屋線の下り(四日Img_5543c 市、津、伊勢、大阪方面)が1番線、上り(桑名、弥富、名古屋方面)が2番線。三岐鉄道は3番線となっています。12時33分の名古屋行き急行に乗車し、桑名着は12時41分。この日で、あみま倶楽部のスタンプは18個目をゲット。
 実際に歩いたルートを「キョリ測」に描いたものは、こちら。詳しいルートが載せてあります。拡大もできますし、標高も分かります。

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2018年9月20日 (木)

中日新聞の記事「疲弊する大学教員」から思い出しました……

 退職してまもなく丸7年を迎えます。ウロウロしているうちに時が過ぎた、という感じです。平成23(2011)年10月末に退職したのですが、体調不良が治らいまま休職期間が満了してしまい、復職するか、退職するかの二者択一を迫られました。が、復職できるほどの体調ではありませんでしたので、退職せざるを得ないというのが当時の心境でした。その後は、一応、桑名発達臨床研究室という心理アセスメントのコンサルティングなどに特化した私設相談室の看板を掲げつつ、初老のオヤジの趣味生活を送っています。

 最近の中日新聞に「疲弊する大学教員」という特集記事が2回にわたって掲載されました。9月2日(日)の朝刊にその上として「現状 教育も運営も、過剰な負担」が、9月16日(日)朝刊に下として「原因と対策 学生確保で業務雪だるま」がそれぞれ載っています。
 大学業界も、いわゆる「大綱化」や、「法人化」以降、大変な状況に陥っています。個人的な見解ではありますが、これらは教員を疲れ果てるまで使い倒す変革だと思っています。「働き方改革」も同様という気がしてなりません。あれも「働かせ方改悪」だという気がします。
 今さらどうこう言うつもりもありませんし、言うこともありませんが、小生自身もずいぶん疲弊していたよなぁと思い出します。平成17年1月のセンター試験の日に倒れ、起き上がれなくなりました。その後は、療養しながら、リハビリ出勤したり、復職を試みたりしていましたが、はじめに書きましたように、退職せざるを得ない始末になりました。
 今時は、どこの業界も大変ですから小生に限った話ではありませんが、あの頃は本当に働きづめでした。転職当時(平成4年)は短大でしたが、その後、平成11(1999)年に学部になり、平成15(2003)年には大学院が発足しました。朝9時過ぎに出勤し、夜9時近くまで働くとか、土日も持ち帰り仕事に忙殺されるか、疲れ果てて寝ているという風でした。自宅から仕事に通うというよりも、勤務先から自宅に寝に通っているという感じでした。
 今から思えば、きわめて異常な生活でしたが、あの頃は、どういうわけかそれが普通でしたし、そうしないと仕事が回っていきませんでした。記事にもありますが、求められるまま働いていたのです。それは普通の暮らしではありませんでしたが、健康を害するのには十分以上でした。
 最近は、半分くらい隠居というか、世間から距離を置いた生活をしていますが、今の世の中、どう見ても尋常ではない気がしています。60歳になる少し前に体調不良の本当の原因が分かり、今は服薬によって、たぶん普通の暮らしを送っています。しかし、40代半ば(学部設置準備の頃)から10年ほどは体調が優れない期間を送っていましたから、今でも、これが人並みの体調なのかよく分からなくなるときがありますし、自分は何をしているんだろう? と思うこともよくあります。しかしまぁ、何がよくて、何が悪いかよく分かりません。少なくとも、嫌なことや、自分がやる意味がないと思うことはこの先もやらないで済ませようと思っています。と書いて思ったのですが、要するに好きなことしかやらないという宣言ですねぇ(笑)。
 という与太話というか、ヘンな昔話、これで最後にします。小生のような状況になった方は、他にもたくさんいらっしゃることでしょう。それもあって、威張るようなことではないと自覚しています。まさかこんなことに興味を持つ方はいらっしゃらないとは思いますが、万一そういう奇特な方がいらしたら、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に昔書いたことをそのまま採録してあります。別にお勧めしている訳ではありません(念のため)。
 以上、つまらない思い出話ですので、ご放念ください。もともとが、「つまる」話を書いているわけではありませんが……。

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20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その3)……豊栄稲荷神社、長倉神社、大矢知砦跡そして桑名城城門のある照恩寺

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 9月15日の近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古20180915kintetsuhikingkasumigaura4 代歴史館を訪ねる」への続きです。その2では、くるべ古代歴史館を見て、長倉神社の一の鳥居までやって来ました。実際に歩いたマップは、右の画像の通り。マップ上、くるべ古代歴史館のところに茶色の○がつけてありますが、このあたりが久留部官衙遺跡です。長倉神社の一の鳥居は、「5km」とあって左へ入るところにあります。
Img_5333c 一の鳥居から坂道を100mほど登ったところに二ノ鳥居があります。長倉神社は、この小山の中腹にあるようです。二の鳥居をくぐっていくと、すぐにお稲荷さんの朱い鳥居が並んでいます。
Img_5337c ここが、豊栄稲荷神社です。先にこちらに立ち寄っていくことにします。ネット検索では何も情報は出て来ません。神社検索(三重)の長倉神社の項目にも言及はありません(ただし、後述のように、長倉神社の御祭神に宇迦能御魂神はあります)。また、こちらのサイトには、長倉神社の御祭神に豊栄大神の名前が記載されています。「とよさかいなりじんじゃ」と読むと思われます。ちなみに、鳥居にある額には「豊栄大神」とありました(2ヶ所)。
Img_5341c 左は拝殿。拝殿に向かって右側に掲示板がありますが、ここに書かれていImg_5345c たのは、お神籤の内容を引き写したような文章でした。由緒書きその他は、残念ながら見当たりませんでした。
Img_5350c_2 長倉神社に登って行く道に近い参道の鳥居脇に、石碑が建っていました。「祈念表」とあり、大正9(1920)年7月に、素麺製造のための機械が発明され、それを組合が率先して試用したところ収益顕著に加わり、幾多の改善が得られたことを祈念して建てたといった趣旨の内容が記されていました。石碑には、発起人として松永仁吉、水谷丑松、人見猪之松の3名のお名前。他多数の名前が刻まれています。大矢知は、江戸時代末期(約200年前)から素麺造りが、農家の副業として行われるようになったところです。旅の僧侶をもてなしたお礼として素麺の作り方を伝えられたという話も伝わっています。大正時代中頃には、それまでの手延べ生産から機械生産に次第に移ったということですから、この石碑はそれに関わるものと思われます。生産量は、全国の1%にも満たないそうですが、コシの強さには評判があります(こちらも参照)。
Img_5353c 話が逸れました。豊栄稲荷神社の上側の鳥居の向かいあたりにも石碑Img_5357c が一つあったのですが、このようにかなり古びたもので、何が刻まれているかは、まったく判読不能でした。長倉神社には、豊栄稲荷神社からさらに100mほど登って行かねばなりません。もう4㎞半くらい歩いてきていますし、気温は高くなかったものの、湿度はかなりあり、汗をかいていましたから、ちょっと大変。このあたりで時刻は11時40分頃。
Img_5374c ようやく長倉神社に到着。境内は結構広くなっていました。すでに述べまImg_5382c したように、延喜式内社。江戸時代には八幡神社と称して、應神天皇を奉斎していたといいます。創祀不詳。主祭神は、応神天皇。相殿神は、木花之佐久夜毘売神(このはなさくやひめのかみ:大山祇命の娘、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃にして、富士山の神。浅間神社に祀られる)、大山祇命(おおやまつみのみこと:山をつかさどる神)、高龗神(たかおかみのかみ:雨をつかさどる神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる)、宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ:五穀、食物をつかさどる)。
Img_5372c  明治41(1908)年2月、大矢知村大字大矢知字山畑の無格社・斎宮神Img_5370c 社、井後神社、山神社二坐を合祀しています。さらに、同年10月、字冨士谷の村社桜神社も合祀。昭和6(1931)年、村社から郷社に昇格。同年神饌幣帛料供進社に指定されています。このうち、斎宮神祠は天武天皇が天照大神を拝んだ迹太川遙拝所跡だという説があります(こちら)。
 
Img_5402c  なお、大矢知はもともと桑名藩領でしたが、後述のように、江戸時代末期に忍藩(おしはん)領となりました。その際には、藩候自らが斎主となって 祭典を行い、武運長久、御陣屋繁栄、領内安全を祈願しています。嘉永6(1853)年から安政・文久・元治2年迄、正月・三月・八月の一七日に当社並に桜神社に代拝を行ったといいます。
Img_5375c さてこの長倉神社、境内にはいろいろなものがありました。まずは、神馬Img_5379c 殿。白馬の人形(?)が御鎮座。殿舎の額をしっかり見てこなかったのはちょっとした失敗(苦笑)。
Img_5408c 神馬殿に向かって左手には、「宮城遙拝所」があります。宮城は、もちろImg_5413c ん皇居。皇居に向かって建てられており、ここから遙拝したと考えられます。皇紀二千六百年(昭和15年、1940年:神武天皇の即位から2600年目に当たるとされた)に建之されています(これはある意味、お約束)。献主は、人見重吉。さらに、境内に入る鳥居脇には、「神宮遙拝所」。神宮は、もちろん伊勢神宮。伊勢神宮に向かっています(右の写真)。こちらも皇紀二千六百年に建之。献主は小林三郎。今まで、近鉄ハイキングなどであちこち神社を訪ねた範囲では、四日市市の北部にこういう宮城遙拝所や、神宮遙拝所が多い印象を持っています。
Img_5392c 拝殿の前には、「御即位祈念」の石柱。碑陰を確認しますと、「大正四(1915)年Img_5404c 十月建之」とあり、寄附人は、吉原庄右エ門他5名の方たちのお名前。ということは、大正天皇が即位された記念に奉納されたということです。大正天皇の即位の礼は大正3(1914)年に行われる予定でしたが、貞明皇后の第四子懐妊(後の三笠宮崇仁親王)により1年延期となり、大正4(1915)年に京都御所で行われています。
Img_5419c 拝殿に向かって左手、境内の西側の小山の中腹に石碑が1つあります。昇格を記念する碑と読めるのですが、上部に何と刻んであるのか、不勉強にして読めません(苦笑)。碑文のはじめのところには「○格記念碑」とありますので、昇格記念碑ではないかと考えた次第。「三重縣知事 従四位勲三等 市村慶三 題額」とあります。昭和6(1931)年10月に建之されていますから、郷社に昇格した年。撰文は、神宮禰宜 正五位勲五等 阪本廣太郎、書は正七位 勲七等 安孫子春雄となっています。ちなみに、石碑を刻んだのは、根来市蔵とあります。根来市蔵は、桑名・吉津屋町にある石市のこと。現在は、15代と看板にありますが、北星地区のあちこちの石碑などにその名があります。
Img_5396c 神社の拝殿脇には、「大矢知砦跡」の説明板もあります。それによれば、Img_5400c 南北朝時代(1331~1392)、北勢地区は南朝方の北畠氏の配下でしたが、足利幕府(北朝)は伊勢守護を二木義長に命じ、文中元(1372)年、大矢知に砦を築いて伊勢攻略の足がかりとしました(二木義長は、仁木義長か?)。このとき、南富田の地頭・南部頼勝(こちらに出て来ます)が北朝方の二木氏に味方して大矢知砦に立てこもり、いったんは南朝軍を破ったものの、垂坂山の合戦(こちらに言及があります)で大敗北してのち、廃城になったといいます。
Img_5423c  長倉神社、小生より先に訪れた方は、「寂しい神社だった」とおっしゃっていたのですが、なかなか面白いところでした。台風21号のあとで、氏子の方が境内の掃除や、片付けをしていらっしゃいました。蒸し暑くて、蚊に何度も襲われました(苦笑)。未確認事項や、よく分からないこともありますが、次に進みましょう。
Img_5432c 長倉神社の一の鳥居から来る途中、お寺があるのを確認していました。というか、くるべ古代歴史館を出たところで、おばちゃん(などと失礼な言いぐさですが、小生よりも年配の女性、お二人連れ)から、「こっちの道でいいの?」と聞かれ、神社までご一緒したのです。そのおばちゃんたちが、神社と間違えたのか、このお寺に入って行かれ、気づいたという訳。
Img_5460c ここは、今日のハイキングのコースには入っていませんでしたが、時間的にも、距離的にも余裕がありましたので、寄り道。結果論ですが、これが幸い(微笑)。青木山照恩寺という、浄土真宗本願寺派のお寺。開基は天文4(1535)年。寛文10(1634)年12月に本願時代13世・良如上人から阿弥陀如来像と寺号を下賜されています。現本堂の創建は宝暦年間(1746~1751年)と伝えられています。
Img_5434c 本堂脇にこのような説明板があったのです。山門が、桑名城内の城門の一つで、四日市市蒔田にある長明寺に移転されたのち、大正15(1926)年に照恩寺に受譲されたという記述が棟札にあるというのです。これは知りませんでした。私にとっては新発見(笑)。ちなみに、長明寺へは一度いったことがあります。去年11月9日に「旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ」で立ち寄りました(2017年11月10日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。長明寺は、ちなみに、蒔田城跡といわれ、中世にお城があったとされます。長明寺の周りには現在も城の堀が残っています。
Img_5451c こちらがその山門。この旧桑名城の門を見つけられたのはラッキーでした。寄り道は楽し、であります。長くなりましたので、その3はここまで。もうゴール目前ですが、忍藩大矢知陣屋跡である四日市市立大矢知興譲小学校についても書くことがいくつかありますから、その3はここまで。その4で、ゴール予定。

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20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その2)……くるべ古代歴史館と長倉神社の一の鳥居

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 9月15日の近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へのその2です。その1では、霞ヶ浦駅をスタートし、浄恩寺、浄恩寺道標、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡を訪ねました。天武天皇迹太川御遥拝所跡からは700mほど、11時5分に到着。
Img_5287c  次は、いよいよ、小生にとって、今日のメインの目的地である「くるべ古代歴史館」に行きます。実際に歩いたルート(キョリ測に描いたもの)は、こちらでご覧いただけます。くるべ古代歴史館は、四日市市大矢知町で見つかった久留部(くるべ)官衙遺跡の中に、今年3月25日にオープンしています。
Img_5282c 大矢知町は四日市市北部にあり、伊勢湾を望む丘陵の東先端部に「久留倍遺跡」という弥生時代から室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれています。国道1号線北勢バイパス建設の事前調査によって、古代の役所跡が発見され、それが国指定史跡久留倍官衙遺跡となっています。「久留部」は地名(訓覇とも書くようです)、「官衙 」は役所ですから、久留部にあった役所の跡ということです。古代、このあたりは「朝明郡」と呼ばれましたので、「朝明郡役所跡」という意味になります。
Img_5284c   左の写真で、下の方を左右に北勢バイパスが通っています。北勢バイImg_5285c パスの下に駐車場や、くるべ古代歴史館があります。史跡に指定された範囲は、北勢バイパスの上(北西側)に広がっています。ここに、正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・東門(八脚門(はっきゃくもん)などを備える東を向く政庁(せいちょう:役所の中心)の跡が見つかったのです。周囲には、官衙関連施設と考えられる多くの建物も見つかっています。この久留倍官衙遺跡は、また、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されていて、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡と考えられています。
Img_5289c くるべ古代歴史館を入ったところにあるパネルと人形。発掘調査は平成Img_5291c 11(1999)年に始まりました。平成18(2006)年には、伊勢国朝明郡の郡家(ぐんけ、ぐうけ、官衙)跡である可能性が高いということで国の史跡に指定されています。朝明郡は、現在の四日市市北部を中心とした地域です。
Img_5293c 館内には、学習展示室があり、久留倍官衙遺跡の変遷Img_5294c や、古代朝明郡のこと、壬申の乱や聖武天皇東国行幸、万葉集との関わりを、イラストや建物の模型、映像、出土遺物で解説されています。
Img_5297c 壬申の乱のことも詳しい展示があります。このとき、大海人皇子(のちの天武天皇)は、672Img_5299c 年6月24日、吉野を出立し、翌25日までに吉野、宇陀、榛原、室生、名張、伊賀、柘植(加太越え)、鈴鹿(伊勢国司が出迎え)、河曲、采女と100km以上を進んでいます(河曲、采女は現在の四日市市)。さらに、26日には、朝明郡家から桑名郡家へ入りました。このとき、「迹太川」のほとりで天照大神を遙拝し、戦勝祈願をしたとされます(日本書紀)。これが、天武天皇迹太川御遥拝所跡とされます。
Img_5300c 壬申の乱については、去年のくわな市民大学の講座(桑名の重要事件Img_5301c を探る)でも話を聞き、勉強していますが、よい復習になりました(微笑)。ちなみに、「桑名」の名前が文献に現れた最初が、この日本書紀の記述だそうです。つまり、大海人皇子が壬申の乱のとき、桑名郡家に宿泊したという記述です。ただし、桑名郡家がどこにあったかは、分かっていません。壬申の乱のと氏、現在の桑名市街地は海中にあったと考えられています。桑名郡家の所在地については、①多度説、②播磨説(桑名北高校あたり)、③額田説(在良と星川の間あたり)の3つの説があります。
Img_5306c 学習展示室の床には、航空写真をもとにした地図がありました。左の写Img_5307c 真で赤丸をつけたところが、久留部官衙遺跡。黄色い丸をつけたのが、近鉄四日市駅。ということで、くるべ古代歴史館の見学を終えます。遺跡公園は、平成31年度に整備完了予定ということです。
Img_5313c くるべ古代歴史館を出て、北勢バイパスの下をくぐり、長倉神社の方へとImg_5315c 向かいます。ここは、7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」の時のコースと少しだけ同じところ(20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!)。道ばたに祠があり、お地蔵様がおられましたが、7月14日の時は気づきませんでした。
Img_5320c 500mほどで長倉神社の一の鳥居にやってきます。この向かいに伊藤手Img_5322c 延製麺所があります。ここは、7月14日のハイキングで立ち寄ったところでしたが、長倉神社はそのときはコース外。蒸し暑く、まだ先が長かったので、神社にはっていません。神社はここから坂道を300mほど登ったところにあります。
Img_5324c 旧社格は郷社。延喜式内神社ですから、古いのですが、Img_5327c 由緒は不詳。また、右の写真にありますように、ここだけでなく境内にも「昇格記念」と刻まれた石碑が多数ありました。昭和6(1931)年に、郷社に昇格し、その年、神饌幣帛料供進社に指定されています。氏子の方々にとっては、この昇格や、神饌幣帛料供進社指定は、相当喜ばしいことだったのだと思えます。
 長くなりそうですので、長倉神社の話の途中ですが、いったんここで区切りとします。

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2018年9月19日 (水)

20180919夕景

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 最近、空や雲、夕焼けに目が向きます。自分ではとくにこれという理由は思Img_2958c いつきませんが……。今日の夕焼け写真です。18時頃の写真。名古屋での日の入り時刻は、17時55分。写真は、いずれもCanonのPowershot SX60 HSで撮っています。夕焼けですので当然、西の空ですが、左の写真は鈴鹿山脈釈迦ヶ岳の方角かと思います。右は龍ヶ岳かなと思っています。
Img_2959c 冒頭の写真と同じような方角を撮ったもの。雲が空高くまで続いていましたImg_2962c ので、縦のアングルで撮ってみました。右は、月の写真。同じく夕方6時前後。9月17日が上限の月、24日が十五夜です。

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油を売って3時間半、5.5㎞散歩(笑)……シロバナヒガンバナも

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 最高気温も30℃には達せず、気持ちの良い1日となりました。「何はなくともImg_2842c 散歩」であります(微笑)。ちょっと気分を変えて、いきなり住吉神社に行くのではなく、我が家のお隣の諸戸氏庭園、六華苑(右の写真)の北側を回って揖斐川の堤防に出てみました。そこから住吉神社、九華公園、田町と回って来ました。あちこちで「油を売って」いて、3時間半あまりかかって帰宅。5.5㎞。帰り際に散歩友達に会って、「油が売り切れましたか? 帰って補給してくださいな」といわれる始末(苦笑)。長年のつきあいで、小生のこともよくお分かりです。
Img_5972c 揖斐長良川の中洲には、あちこちにアオサギやダイサギの姿が見えます。Img_5986c ほぼ毎日見られるようになっています。今日はダイサギ4羽にアオサギが1羽。揖斐川上空では、コサギも1羽、下流方向へ飛んで行くのが見えました。
Img_5993c 七里の渡し跡近くで散歩中に知り合った方に久しぶりに遭遇。何度もお誘Img_2920c いをいただいていましたので、お宅にお邪魔してお茶を一杯ご馳走になって来ました。80代半ばにして一人で暮らしておられます。「小綺麗にしている」とおっしゃるとおりの暮らしぶりで、見倣わなければなりません。その後九華公園へ。今日は、定位置にアオサギ。相撲場には、ハクセキレイ。
Img_2915c 本末跡の松の木には、カワラヒワがやって来て、松の実で食事中。鱗片の奥の方へ頭を突っ込んで食べています。鱗片の裏側に種子があるそうですから、それを食べているのかという気がします(こちら)。このほか、モズの鳴き声も聞こえていたのですが、姿は見つけられず。シジュウカラや、ヒヨドリもやって来ています。
Img_6043c 九華公園の外周遊歩道の南にあるお宅には、柿の木があります。「柿泥Img_6067c 棒」を発見。カラスが2羽やって来て、柿の実をつついています。しばらく写真を撮っていても、まったく動ずることなく、堂々と(笑)。
Img_2887c ヒガンバナは、いよいよ勢いを増してきています。左の写真は、鎮国守国Img_2901c 神社の拝殿の裏。いつぞや「ムーミンのニョロニョロのようだ」と表されたところ。マイ・ヒガンバナが・ガーデンに認定したいくらい。ここ、鎮国守国神社の裏手には、本当にたくさんのヒガンバナが咲いています。
Img_2896c 「お約束の」ヒガンバナの下から見上げるショット。例によって、コンデジをImg_6076c 突っ込んでてキトーにシャッターを押しています(笑)。それから、シロバナヒガンバナ。帰り道、田町から北、春日町あたりの歩道のところで咲いているのを見つけました。この近所の方が植えられたのではないかと思います。
Img_2925c お彼岸を前に、雲は秋のイメージでした。九華公園では、バールフレンドのTさん(80歳を過ぎてから、アルファベットの練習をしておられます)、管理人Sさん、前管理人Oさん(現在、次のパネル展示「桑名の東海道」の掲出準備をしてくださっています)、散歩友達Wさんほかとお話しというか、一所懸命に油を売ってきました(微笑)。

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2018年9月18日 (火)

20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その1)……霞ヶ浦駅をスタートし、浄恩寺、浄恩寺道標、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡まで

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 9月15日に出かけた近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」の本編です。この日は、修復工事中の諸戸氏庭園の工事現場見学会もありました。若干迷ったものの、こちら、近鉄ハイキングに参加しました。今日になって、見学会にいらしたご近所の方に伺うと、「御殿にもあげてもらったよかったよ」というお話しでした。う~む、微妙なところです。ハイキング当時は、朝から雨模様。ネットで何度も雨雲レーダーを見ていましたが、9時を回ってから雨雲が見えなくなりましたので、9時半過ぎに出発。
Img_5158c いつもより1時間ほど遅く、桑名駅を9時52分の津新町行き普通電車に乗車して、スタートの近鉄名古屋線・霞ヶ浦駅へ。10時5分に到着。¥260。同じ電車に20~30人くらいハイキング参加者が乗っておられました。受付は、9時から11時ですから、楽勝。
Img_5156c 左の写真が配布されたコースマップ。霞ヶ浦駅から浄恩寺、荒木十兵衛頌20180915kintetsuhikingkasumigaura1 徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡、くるベ古代歴史館、長倉神社、丸井屋老舗と回って、三岐鉄道三岐線・大矢知駅がゴール。マップ上は、5.9㎞。右は、この日実際に歩いたルートをキョリ測に描いたもの(こちらでご覧いただけます。拡大もできますし、標高も見られます)。浄恩寺、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川御遥拝所跡の3ヶ所は、去年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」の時にも立ち寄っています(2017年12月24日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。また、くるべ古代歴史館と、長倉神社の2ヶ所は、7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」の時、近くを通ったものの、コースには含まれていなかったところ(20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!)。
20180915kintetsuhikingkasumigaura2 実際に歩いたルートの拡大マップ(その1)。霞ヶ浦駅から踏切をわたって北西へ。垂坂公園の方角へ1㎞半ほど。羽津中、別名という地名。このあたりは住宅街。
Img_5173c とくに見るべきところはありませんが、霞ヶ浦駅の北には、ミエ・ヘア・アImg_5177c ーチストアカデミーという美容学校があります。その北西には、羽津文化幼稚園。けっこう派手な建物。
Img_5181c 出発からちょうど1㎞半、別名3丁目と南いかるが町の境で右折。北東Img_5182c へ。傘を差した方が写っていますが、実は、霞ヶ浦駅でスタートするとき、霧雨が降っていたのです。小生は傘は差しませんでしたが、結局、ゴールするまで霧雨模様でした。余談。「いかるが」というと、法隆寺のある斑鳩を思い浮かべるでしょうが、このあたりは「伊賀留我」。神社の名前にもなっています。去年12月24日の「近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完)」をご参照ください。
20180915kintetsuhikingkasumigaura3 2㎞を過ぎて、しばらく行くと、斑鳩山浄恩寺に到着(左のルートマップその2を参照)。初めの方に書きましたが、ここには、去年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」の時にも立ち寄っています(2017年12月24日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
Img_5186c 浄土真宗本願寺派。天延2(974)年10月、大僧正良源が舟木兵部少輔Img_5189c 良兄に招かれて垂坂山でしばらく居住した際に、弟子の覚鎮が当地に斑鳩山大膳寺を創設、天台宗寺院として栄えたのを前身とします。ちなみに、良源は、康保3 (966) 年、第 18世天台宗座主に就任し、叡山中興の祖といわれます。慈慧大師と勅諡されました。
Img_5192c 長享2(1488)年3月、本願寺の蓮如上人が当地に寄ったImg_5194c 際、その教化を受けて延徳年間(1489~1490年)に浄土真宗に転じたといいます。このとき、蓮如上人から御親筆六字及び十字の名号が与えられ、寺宝として残されているそうです。現在の本堂は明治28(1895)年の建立。
Img_5201c 境内には、聖徳太子堂があります。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したImg_5204c ため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されているのです。この太子堂は、明治2(1869)年に、四日市市西富田町にある三光寺(浄土真宗本願寺派)から移建されたものです。
Img_5206c 霧雨模様であったためか、前回伺ったときよりも、いい雰囲気のお寺にImg_5212c 感じました。
Img_5220c 浄恩寺を出てさらに北東へ。県道64号線を横断歩道橋でわたります。南Img_5224c 東を見ると(左の写真)、四日市港方面がよく見えます。四日市港ポートビルや、ガントリー・クレーンなども見えています。右の写真は、北西方向。この先には、北勢バイパスのインターチェンジがあります。この横断歩道橋は、伊賀留我神社前交差点のすぐ近くにあります。伊賀留我神社は、南北2社があり、そこには、去年12月22日の近鉄ハイキングで寄り道しています(近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
Img_5231c  次の立ち寄りポイントの荒木十兵衛頌徳之碑の手前で、「浄恩寺道」とImg_5233c 書かれた石柱を見つけました。こういう道標、石柱のたぐいも気になります(微笑)。。「昭和貳年三月 道路改修祈念 現住専行」とあります。ここは、十四川のほとり。浄恩寺への参道であることを示すものと思われます。昭和2年ですから、1927年の建立。こちらの道標リストにありますが、詳細はネット情報では出て来ません。
Img_5242c 荒木十兵衛頌徳之碑です。このあたりで3㎞の手前、時刻は10時50分を過ぎた頃。荒木十兵衛は、桑名藩領朝明郡北鵤村の庄屋で、羽津用水を築造した人物です。田園地帯であるこの地は七つのため池があるものの、水利に恵まれずたびたび干害に見舞われました。十兵衛は村を干害から救うために、困難な利害を調整し、朝明郡平津村(現平津町)の朝明川から取水工事を行い、宝永3(1706)年全長6㎞に及ぶ羽津用水を完成させました。この用水のおかげで北鵤、羽津、茂福等の村々の水田に水を潤すことができ、作物も豊かに実るようになったといいます。
Img_5249c しかし、同年、十兵衛の俊英を恐れた桑名藩は、褒賞を与えると見せかけて十兵衛を城内に召し、毒殺してしまったそうです。昭和27(1952)年(昭和28(1953)年4月としている情報源もあります)、四日市市長の吉田千九郎は十兵衛の功績を讃え、顕彰碑を北鵤の地に建てました。鵤説教所には、荒木十兵衛の位牌が安置されているそうです。なお、羽津用水の開削者については、時の郡代・野村増右衛門とする異説もあります(ただし、こちらは根拠が弱いようです。上記の羽津用水のリンク先をご覧ください)。
Img_5246c 荒木十兵衛頌徳之碑に並んで「殉難の碑」があります。こちらは、羽津用水改作の際、十四川と交差させる地下の難工事で殉じた方々のためのものです。
Img_5251c  荒木十兵衛頌徳之碑および殉難の碑から50mほどのところには、天武天Img_5257c 皇迹太川御遥拝所(てんむてんのうとおがわごようはいじょ)跡があります(県指定史跡)。大矢知町の民家の隣。壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家に進み、さらに朝明郡の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したといいます。御遥拝所跡の碑が立つこの地は、江戸時代の人がその場所であると考えたところだそうです。
Img_5262c  慶応2(1866)年に造立された石柱には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉Img_5261c 宮」とあります。近年まで松の古木が立っていたといい、そのためこの地が御遥拝所跡として昭和16(1941)年に指定されたのです。松は平成14(2002)年に枯れ、今は、地元自治会が植えた槇の木があります。去年12月に来たときもそうでしたが、ここはよく手入れされており、雑草も生えていませんでした。
Img_5258c この御遥拝所跡は、川沿いにあります。川は、十四川(じImg_5264c ゅうしがわ)で、古くは、咒志川(しゅうしがわ)といったようです。「迹太川(とおがわ)」は、現在の「米洗川」とされます(ホントに歩く東海道など)。米洗川を調べると、垂坂公園の北から東にかけて流れている川が出て来ます(こちらなど)。この地に「天武天皇のろしの松」とされた老松があったために天武天皇の御遥拝所と定められたということですから、確かにここで大海人皇子が戦勝祈願をしたかどうかは、分かりません。
4c3861c6 これは、伊賀留我神社(北)にある説明板(去年12月22日の近鉄ハイキングの時に撮影)。これによれば、伊賀留我神社は、斎宮と記されており、斎宮は伊勢神宮の斎宮ですから、伊勢神宮との関連があると思われます。また、鵤の地名は、大和の斑鳩との関わりも伺わせます。ここ鵤は、聖徳太子の御料地という言い伝えもあるそうです。この御遙拝所跡の北西には、「斎宮」という地名があり(ルートマップその2を参照)ます。また次の立ち寄りポイントである久留部官衙遺跡も近く、このあたりは歴史のクロスロードという感じです。
 ということで今日はここまで。次は、くるべ古代歴史館から。

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九華公園に行くも、鳥はほとんどおらず(苦笑)

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 よく晴れました。気温も31度を超え、日当たりでは暑いくらい。今朝は、資源ゴミの当番をこなしてから、8時15分スタートでいつものコースへ散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、田町と5.9㎞。3時間コース。
Img_5894c 住吉神社から見る、揖斐長良川の中洲。アオサギなどが集まってきていまImg_5905c す。アオサギが3羽、白いのはダイサギかと思いますが、3羽。ここにアオサギたちが集まると、秋という感じがしてくるのです。七里の渡し跡では、桜の木にシジュウカラが1羽。シジュウカラは今日は、九華公園などにもいました。少し過ごしやすくなってきたからかも知れません。
Img_2815c しかし、肝心の九華公園、今日は鳥はほとんどいません。シジュウカラ、カワウ、ヒヨドリなどが少しいただけ。昨日も河口堰ではほとんど空振りでしたが、なかなか思うようには行かないもの。
Img_5924c 管理事務所の南、吉之丸堀の西にカメが甲羅干しに上がってくるスロープImg_5931c があったのですが、先日の台風21号で破損。現在、スロープの板が堀に浮いています。それでもカメたちは、甲羅干しをしないとなりませんので、浮いている板の上で苦労しています。「親亀の背中に子亀……」ではなく、とにかく他の亀の上にでも乗っかって、甲羅を日に当てようと必死の様子。
Img_2793c ヒガンバナ、だんだんと増えてきました。九華公園のあちこちにありますImg_2807c_2 が、もっとも多いのは、鎮国守国神社の拝殿の裏。それが右の写真。1枚の写真には収められないくらい広い範囲に密集しています。
Img_2800c 赤い、普通のヒガンバナはあちこちに見ますが、今のところまだ、シロバナヒガンバナは見ていません。毎年、田町交差点から船場町にかけての道路沿いに少しあるのですが、まだ出て来ていません。明日までは天気が良さそうですから、また明日にでも見てくることにしましょう。

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