2018年12月10日 (月)

三重K-ABCアセスメント研究会第26回研究会のお知らせ……大六一志先生による「WISC-Ⅳの理論と活用Ⅶ」

 三重K-ABCアセスメント研究会から第26回研究会の案内をいただきました。今回は、日本版WISC-Ⅳ刊行委員の大六一志先生をお招きして「WISC-Ⅳの理論と活用7」というテーマの特別講演会が開催されます。

 以下にはその概要をお示しします。ご関心がおありの方は、この記事の末尾から正式な案内文書をダウンロードし、内容をご確認の上、直接三重K-ABCアセスメント研究会へお申し込みください。
1.日 時:平成31(2019)年1月6日(日) 9:30~16:00(受付開始は9:00)
2.会 場:津市河芸公民館第1・2会議室(〒510-0314 三重県津市河芸町浜田742)
3.内 容:特別講演 「WISC-Ⅳの理論と活用7」 
4.講 師:日本版WISC-Ⅳ刊行委員・大六一志先生
5.参加費:2,800円(三重K-ABCアセスメント研究会会員は参加費無料)
6.申し込み方法:必要事項(①お名前、②ご所属 ③職種 ④連絡先住所 ⑤連絡先電話番号、⑥E-mailアドレス)をご記入のうえ、E-Mailで平成30年12月21日(金)までに下記メールアドレス宛にお送り下さい。なお、受付は先着順とし、参加可能な方には事務局から受付メールが届きます。
7.申し込み・問い合わせ:mie.kabc.goto@gmail.com (後藤勝弘先生、メールご送信の際には、@マークは半角サイズ(@)に修正してください)
8.事務局: 〒514-0821 三重県津市垂水2622-1 津市立南が丘中学校内 「三重K-ABCアセスメント研究会」事務局
 正式な案内文書は、次からダウンロードしてください:

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2018年12月 9日 (日)

20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来

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 多度山から北、養老山地の方は、雪が降っているような感じであります。今Img_5664c 日もまた、お出かけ(笑)。「毎日、毎日、何をしているのだ?!」といわれそうですが、今日もまた近鉄ハイキングです。来週は、ハイキング/ウォーキングと予定が合わず、次になると12月22日になってしまいますし、今日は、待望の「酒蔵みてある記」の初回なのです。
Img_5521c  今日の近鉄ハイキングは、「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」。近鉄名古屋線・弥富駅がスタート&ゴールの約7㎞。コースマップ20181209kintetsuhikingyatomi は、左の写真の通り。弥富駅をスタートし、薬師寺の大楠・鯏浦(うぐいうら)城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵を経て、青木酒造で酒蔵見学&試飲、甘酒のふるまい、即売会・抽選会。そして、ひたすら歩いて、弥富駅に戻ります。なのですが、試飲をしすぎたせいか(笑)、曲がるべきところを見逃し、大回り(爆)。500mほど余分に歩いてきました。といっても、他にも同じ誤りをしでかした方があり、大笑い。右の画像が実際に歩いたルート。歩くために行ったはずですから、まぁ良し。
Img_5527c 桑名駅を9時11分の名古屋行き準急に乗車。2駅目が弥富。9時19分着。Img_5517c ¥260。受付は9時半からとなっていましたが、すでに始まっていました。というのも、この「酒蔵みてある記」は参加者が多いのです。9時28分にはスタート。
Img_5525c 最初に向かうのは、薬師寺の大楠・鯏浦城跡ですが、この「鯏」という漢Img_5528c 字を知りませんでした。「うぐい」なのです。ウグイは淡水魚ですから、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。午前中、北西の風が5m/s前後、気温6~8℃という「好条件」の中、頑張って歩きます。
Img_5532c 1㎞足らずで、鯏浦山薬師寺に到着。ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつ

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て織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党を攻めるためです。信長の弟・彦七郎信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。
Img_5544c 境内には、この「鯏浦城跡」の石碑があります。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。この碑は昭和51(1976)年に建てられました。
Img_5560c また、クスノキの大木があり、「薬師寺の大楠」として親しまれています。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。織田信長と一向門徒・服部党との戦いは、後の長島一向一揆にもつながるものですが、小生、その辺りは、知識不足。本編では、もう少し調べ、頭を整理して書きます。
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 西中地の交差点に向かう途中、スタートから1.3㎞ほどのところにあるのImg_5586c が、難畑地蔵尊。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、その後人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕にたったといいます。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。案内してくださった弥富ボランティアガイドの方に伺ったお話。
Img_5596c 東名阪自動車道弥富インターチェンジのすぐ南西、興善寺地蔵があります。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されたといます。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し さらに名古屋に移りました。
Img_5598c 廃跡となったその後、白頭池からこの2体の石仏が掘り出され、「興善寺の地蔵」として、服部肇家と斎藤光男家が先代より代々この墓地に安置してきました。昭和51(1976)年に弥富の文化財に指定を受けてからは荷之上区が管理しています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。
Img_5606c このあと、東名阪自動車道の下をくぐって、弥富から愛西市に入っていきImg_5624c ます。途中、寒く、北風もかなり強く吹いています。西の養老山地を見ると、薄ら雪が積もっているのが見えます。道理で寒いわけ。はやく青木酒造へ行って試飲がしたい(笑)。
Img_5666c 10時半、青木酒造に到着。スタートから約3.9㎞。弥富駅から東名阪自動Img_5634c 車道を越えて、愛西市まで行くと思うと、かなり遠いイメージでしたが、案外近く思えました。すでにたくさんの参加者が、試飲や即売会に。青木酒造さん、創業は江戸後期・文化2(1805)年。
Img_5642c 無料の試飲はこちら(というのも、有料の試飲、1杯100円もありました)。Img_5639c
早速、「米宗(こめそう)」をいただきました。「完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒」。純米酒で、辛口。トロッとした印象。美味い!
Img_5658c  このほか、限定商品の「活性手汲みどぶ 純米酒」も試飲に出て来ましImg_5657c たので、こちらも味わってきました(微笑)。搾られたばかりの原酒どぶろくが瓶詰めされています。そのため、いきなり開けると爆発(?)して「危険」なのだそうです。即売会で売っていた「米宗の活性ふなくち手汲みどぶ」には、「危険生原酒」という赤いラベルがあったくらい(笑)。体が温まり、美味しかったものですから、普通の「米宗」をもう1杯と、梅酒も1杯、都合4杯もいただいてきました(笑)。そうそう、甘酒もでした。
Img_5736c 「酒蔵みてある記」に参加したとき恒例のお買い上げ、今日は、こちら。Img_5654c 最初に試飲した「純米 米宗(完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒)」、720ml入り、¥1,300です。なかなか良いお値段ですが、たまにはいいでしょう。この頃、愚息もこれを密かに楽しみにしているようです。
Img_5675c 青木酒造を10時45分に出て、東へ。300mほどのところに、稱名山源空寺。浄土Img_5680c 宗のお寺がありましたので、勝手に立ち寄って来ました。由緒などを記した看板などはありませんでしたが、例によって、ネット検索すれば何か分かると高を括ったのが間違いでした。浄土宗のお寺を検索するサイトでは出てきたものの、それ以外は分かりませんでした。楠でしょうか、大木が印象的です。
Img_5685c 境内には、お社が3つ。これも何も説明はありません。神社に詳しい方であれば、お社の形からある程度のことはお分かりになるのでしょうが、あいにくそこまでの知識もありません。
Img_5691c このあと、はじめの方にも書きましたように、本来右折すべきところを見逃し、大回り。ただし、他にも10名以上の方が同様のミス。実際に曲がったあたりで、女性の方も「私、地図がよく読めないんです」と、迷っておられたのですが、「いずれにしても東名阪自動車道に突き当たれば良いのですから、ここから行きましょう」とお誘いし、結局、ゴールまでご一緒してきました。帰ってから調べたら、500mほど余分に歩いてきたという次第。青木酒造以降は、今日は立ち寄るところは設定されていませんので、3.8㎞ほどをひたすら歩いてきました。たくさん試飲をいただいて、ほろ酔い気分でよかったのかも知れません。
Img_5711c ゴールの弥富駅に戻ってきたのは、11時43分。7.7㎞を歩きましたが、その割りにかかった時間は、2時間15分でした。立ち寄り先が少なかったのと、立ち寄り先であまりウロウロと見て回るところがなかったからです。11時55分に五十鈴川行き急行がありましたので、それで帰宅。桑名駅着は、12時1分。¥260。
Img_5744c 昨日に続き、あみま倶楽部のスタンプをゲット。来週末は、この辺りでは近鉄ハイキングも、酒蔵みてある記もありません。12/16には、JRさわやかウォーキングが南四日市駅であり(醸造文化(味噌・醤油・酒)が残る四日市を丸ごと体験ウォーク)、神楽酒造へ行くコースなのですが、あいにくと研究会(あいにくなどと書くと、お叱りを受けますが)。神楽酒造さん、去年も行って、好みなのですが、残念。また、酒蔵みてある記で来年2月に行く機会がありそうですから、そのときの楽しみに。
 昨日の近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」の本編と、伝馬公園遺跡発掘調査説明会の記事も書かねばなりませんが、少しずつ載せていきます。

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2018年12月 8日 (土)

20181208近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」(予告編)

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 真冬の空という印象です。今日は、若干迷ったものの、近鉄ハイキングにいってきました。迷ったというのは、午後2時から、市内の伝馬公園で「遺跡発掘調査説明会」もあったからです。結果的には、どちらも参加しました(微笑)。
Img_5052c 今日のハイキング(千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ)のスタートは近鉄名古屋線・川越富洲原駅。受付は、9時45分から。ということで、桑名駅を9時9分の津新町行き普通に乗車。川越富洲原までは、3駅です。9時17分に到着。¥260。
Img_5048c コースマップは左の写真。近鉄のサイトでは、約5㎞となっていたのですが、20181208kintetsuhikingkawagoetomisu マップには約4㎞とありました。「ファミリー向き」とありましたから、これくらいなのでしょう。川越富洲原駅をスタートして、龍王山宝性寺、聖武天皇神社、富田山長興寺から、富田菓庵清華堂に立ち寄って、名古屋線・近鉄富田駅がゴールです。実際に歩いたルートは右の画像の通り。立ち寄り先でウロウロした分をカウントしなければ、3.8㎞でした。
Img_5034c スタートする前からいきなりの余談で恐縮。川越富洲原駅を降りたら、名古屋方面のホームに「つどい」が停車していました。普段は、白塚の電車区に留置されています(江戸橋方面に行ったときに確認)。運行日の朝、名古屋まで回送されます。実は、このあと、ハイキングコースを歩いていて、富田駅近くで、湯の山温泉行きとして走っているところも見ました。
Img_5040c 川越富洲原駅に着いた時、すでに30名近くの方が待っていました。20分あまり待って受付。マップを受け取り、9時45分にスタートしました。川越富洲原駅は、川越町の南の端にあり、少し歩くと四日市市になります。川越富洲原からまずは、北西へ進み、龍王山宝性寺に向かいます。
Img_5062c 最初の立ち寄り先である龍王山宝性寺。今回は、伊勢西国三十三所観音巡礼ですが、ここは、第28番札所。ご本尊は、十一面観音菩薩像。それを安置している本堂が市指定文化財です。天平12(740)年に聖武天皇の勅願により創建されたのが始まりだそうです。蒔田第一自治会が所有しています。それ故、現在は特定の宗派には属さず、いわゆる単立寺院です。
Img_5093c 永禄11(1568)年の春、織田信長の家臣滝川一益の長島一揆攻略の戦火に遭遇して焼失しました。その後、現在地に小堂が建立されたのですが、正徳元(1711)年の冬、火災により再度焼失しました。享保4(1719)年6月、第6代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂です。「蒔田観音」と愛称され、今日まで広く信仰されています。
Img_5101c 境内には、阿弥陀堂があります。阿弥陀堂については、由緒書きにも出Img_5087c_2 て来ませんし、ネットで検索しても情報は得られません。宝性寺に隣接して、御厨神明神社があります。この神社についても、神社検索(三重)にも載っていませんし、ネットで調べても分かりません。しかし、「御厨」には、伊勢神宮が各地にもつ神宮神領という意味があります。また、神明社は、天照大神あるいは伊勢の内・外宮の神を祀った神社です。ということは、伊勢神宮に関連が深いところかと思えます。
Img_5113c 宝性寺の南西には、朝明殿長明寺。浄土真宗本願寺派のお寺。立派なImg_5111c 山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれています。その理由は、ここは、文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城跡といわれるからです。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。
Img_5126c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。
 ちなみに、宝性寺、御厨神明神社、長明寺は、昨年(2017)年11月9日に訪ねています(2017年11月10日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。そういえば、次は富田から四日市まで旧・東海道を歩きたいといっていましたが、未だ実現していませんねぇ(苦笑)。さらなる余談ですが、この辺りは大矢知素麺の産地で、製麺所がいくつかあります。
Img_5132c さらに進んで、東海道八風道と交わるところの少し手前ある「鏡ヶ池跡」は、聖武天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池というようになったと伝わっています。
Img_5138c 鏡ヶ池跡の先から、少しだけ八風道を歩きます。このあたりは、JR関西線、近鉄名古屋線、三岐鉄道三岐線が集まってきます。富田駅も近くなって来ているのです。
Img_5142c 今日の立ち寄りスポットではありませんが、弘法山田村寺。真言宗醍醐派のお寺で、三重四国八十八箇所の5番札所に当たります。毎年、冬至の前日と当日、「中風封じ」法要が開かれ、ご祈祷を受けた参拝者にかぼちゃぜんざいが振舞われます。「かぼちゃ大師」の日として親しまれています。
Img_5144c 実は去年、12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」で来ています(2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。その際、お下がりとして、かぼちゃ煎餅(カステラ生地の薄焼き煎餅)をいただきました。田村寺、創立は江戸時代末期(1850年頃~)。寺伝によれば、平安時代初期、坂上田村麻呂公が東征の帰途、この地で休息した際、村人のもてなしに感謝し、田村の姓を下賜され(それ故、この地区にImg_5216c は田村姓が多いようです)、江戸時代に坂上田村麻呂公の霊を弔い、草庵を開いたといいます。明治時代、大慈遍照二世の大導師が弘法大師を信奉し、信徒ともに厄除け大師の恩恵に浴し、大師堂を建立、寺号も田村寺となったといいます(別の伝承もあります)。
Img_5149c 境内にある地蔵堂には、大きなかぼちゃが6個。今年も中風封じが近いですから、それに使う大かぼちゃでしょうか。
Img_5178c_2 田村寺を出て南東へ。三岐鉄道三岐線の高架を2回くぐったりして、松原Img_5174c 野球場のところに出て来ます。このとき、再び「つどい」を目撃。今度は、正式に運行中。また、この松原野球場は、近鉄電車からよく見え、いつも気になっていたところ。市の体育協会が所有するグラウンドのようでした。
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 松原野球場の少し先、左手(北側)にあるのが、聖武天皇社。社伝によれば、天平12(740)年に聖武天皇が伊勢国に行幸された際の「朝明頓宮」の跡として、鎌倉時代の安貞元(1229)年に創建されたものと伝わっています。
Img_5192c 富洲原地区の一つの松原地区の氏神様であり、聖武天皇を祀っています。松原の石取祭が行われます。境内には、聖武天皇の御製(万葉集一〇三〇)「妹に恋ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る」を刻んだ歌碑が建っています 昭和3(1955)年、佐々木信綱の筆による歌碑です。
Img_5252c 聖武天皇社の東で国道1号線に出ます。イオンモール四日市北があります。ここにはかつて、東洋紡績(現:東洋紡)富田工場がありました。しかし、繊維業界の低迷を受けて、平成9(1997)年に閉鎖され、その跡地に平成13(2001)年1月にジャスコ四日市北ショッピングセンターとして開業しました。
Img_5257c イオンの西には、JR富田駅・富田駅(東口)と、三岐鉄道本社が並んで立Img_5254c っています。このあたりは、時々クルマでも通っています。さらに少し南に行き、富田三丁目で右折して、西へ。
Img_5272c 300mほど行くと、富田山長興寺。曹洞宗のお寺。養老6(722)年、泰澄Img_5274c 師が開基となって堂宇を創建。大師が寺前の大木を夜籠もりして彫刻した大日如来を本尊としたと伝わっています。伊勢西国三十三所観音巡礼の第27番札所。弘仁8(817))年、弘法大師により再建されたといわれています。天文14(1545)年、この地の城主・南部甲斐守兼綱が菩提所として再興した際、真言宗から曹洞宗に改めています。その後、永禄11(1568)年、織田信長の伊勢侵攻の兵火により灰燼に帰しました。本堂は、明和3(1766)年に再建されたものの、安政元(1854)年の大地震で倒壊。明治11(1878)年になって再建されていますが、老朽化のため、平成15(2003)に現在の本堂が竣工。
Img_5277c 今日は11時から法要が執り行われているということで、本堂への参拝Img_5291c_2 や、ご本尊の拝観は叶いませんでした。ここまで来て、3.3㎞。このときは、3㎞あまりしか歩いていないことはあまり意識していませんでした。長興寺から100mほど、ちょうど裏手に当たりますが、富田菓庵清華堂が最後の立ち寄りスポット。800円(税込)以上買うと、「鯨船ふやきせんべい」が1枚プレゼントされるということでしたが、申し訳ないと思いつつ、見て、写真を撮っただけで通過。
Img_5290c この富田菓庵清華堂の手前にある寺本商店(酒屋さん)の前には、里程標がありまImg_5281c す。「津市元標へ拾里 三重郡富田町」と刻まれています。この里程標は、大正3(1914)年11月に三重県が建てたもの。向かって右側には「桑名郡桑名町大字桑名へ弐里弐拾町/員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町弐拾四間」と、また左側には「四日市市大字四日市へ壱里八町」とあります。
Img_5296c スタートから3.8㎞、11時7分に近鉄名古屋線・近鉄富田駅にゴール。多少寒かったものの、距離も短く、さほど負担ではありませんでした。午後からの伝馬公園遺跡発掘調査説明会は2時からですので、いったん帰宅することにしました。11時16分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、11時22分着。¥260。
Img_5313c 先だって更新してきた新しいあみま倶楽部の会員証に1個目のスタンプを押してもらいました。また、今日のハイキングは、「近鉄あみま倶楽部KIPS対象ハイキング」。参加すると、KIPSポイント100ポイントがいただけました(微笑)。いわば「100円の駄賃をいただいた」ということ。桑名駅までの往復は、1.8㎞。都合ここまでで、本日は、5.6㎞。いつもの散歩並み(笑)。
 今日のハイキングの記事本編は、また改めて。
 ところで、午後からは、歩いて伝馬公園遺跡発掘調査説明会に行ってきました。これも大変興味深いものでした。あとでまた記事を書くことにします。

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20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その4)……加佐登調整池を回り、加佐登神社を見て、JR加佐登駅で勝手にゴール(完)

20181202kintetsuhikinghiratacho3_2  近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」のその3がずいぶん長い記事になりました。設定されたコースでは、荒神山観音寺から来た道を戻って、鈴鹿中等教育学校・鈴鹿高校のところで「たいやきわらしべ鈴鹿店」に立ち寄って、近鉄平田町駅に戻ることになっていました。しかし、同じ道をそのまま戻っても面白くありませんし、懐かしいところをもう少し見て回りたいと思いましたので、ここから勝手にコースを変更し、ゴールもJR関西線・加佐登駅にしてしまいました。実際に歩いたルートマップに示しましたように、荒神山観音寺を出て、加佐登調整池沿いを東へ進みます。
Img_4603c 加佐登調整池は、水資源機構・三重用水管理所が管理しています。小生Img_4616c が、鈴鹿に来たのは昭和54(1979)年4月でしたが、ここのダムは、その前年・昭和53(1978)年3月に着工、昭和58(1983)年2月に完成しています。その3で、当時住んだ長屋の裏の林の向こうに加佐登調整池があると書きましたが、それがこれ。椎山川をせき止めています。総貯水容量は、3,047千立方メートル(想像が付きません)。堤の高さは、28.7m。
Img_4633c こちらがダムの堤本体を見上げた写真。加佐登神社の前から見ています。冒頭の実測ルートマップでは、9㎞地点のやや右上あたりから見たもの。ちなみに、加佐登調整池には、すぐ近くにある日本武尊(ヤマトタケル)伝説のある白鳥塚古墳に因み、「白鳥湖(しらとりこ)」という愛称がついていました(今回、初めて知ったのですが……)。
Img_4622c  これは、小生がその昔住んでいたあたりを、ダム湖の対岸から見た写真。写真中央に建つ家の向こう辺り。当時も裏手は林や草地で、イタチなどが出没しました。長屋の裏のドアを開け放していたら、イタチが食パンを咥えて逃げたとか、いろいろな経験をしました(笑)。
Img_4611c 荒神山観音寺のすぐ東には、鈴鹿フラワーパークが広がっています。Img_4619c 9.9haとかなり広い公園です。四季の花はもちろん、噴水や花の丘、桜の広場、野点広場などがあり、この日も家族連れで賑わっていました。小生が鈴鹿にいた頃はこの公園はまだありませんでした。
Img_4624c スタートから8㎞半くらいのところに、「白鳥陵(シラトリノミササギ)」があります。白鳥陵は、日本武尊の墓をいうのですが、調べると、伊勢国能褒野(のぼの)の陵、大和国琴弾原(ことひきのはら)の陵、河内(かわち)国旧市邑(ふるいちのむら)の陵の3か所をいうとあります。日本武尊は、死んで白鳥になったという伝説がありますが、この奥には、白鳥塚の古墳があります。
Img_4628c 白鳥塚古墳は、7基から成る白鳥塚古墳群の主墳で、正式には白鳥塚Img_4642c 古墳1号墳といい、三重県下最大の帆立貝式古墳です。墳長80m、高さ13mで、出土品には円筒埴輪があります。築造時期は、5世紀前半とされています。本居宣長や平田篤胤ら江戸時代後期の国学者の多くが、ここを古事記にある日本武尊の能褒野陵墓と考え、明治9(1876)年、教部省は白鳥塚を日本武尊陵墓と治定しました。しかし、明治12(1879)年、宮内省はそれを覆し、丁子塚(現亀山市)を治定し、以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓(能褒野王塚古墳)とされています。今回、白鳥塚そのものは見て来ていません。
Img_4629c 句碑は、俳人小林青波(鈴鹿市俳句連盟理事)による「白鳥座 能褒野の天に 懸りたり」という句が刻まれています。平成29(2017)年12月に「鈴鹿帆の会」の方々により建てられたばかり。
Img_4638c 加佐登調整池を回って、ダム本体の堤のところを降りてくると、加佐登神社の参道があります。ここも何度も来たところ。花見によく来ました。鈴鹿病院で働いていた頃は、野球部に所属していましたが、その野球部でよく焼き肉パーティーをしたのもここでした。
Img_4639c  日本武尊の能褒野(のぼの)陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀っています。延喜式神名帳にある、伊勢国鈴鹿郡の倭文神社(しとりじんじゃ)を合祀したと伝えられます。日本武尊を主祭神とし、古来、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていました。 境内には倭文神社や慈悲山廃寺があったと伝えられます。明治6(1873)年に現社名へ改め、明治41(1908)年に近隣の神社16社を合祀し、現在の姿となるとともに、村社に列格しました。
境内の椎山川中世墓から出土した陶器などを展示する高宮資料館があります。 紫ツツジの名所でもあります。
Img_4635c 白鳥塚も、加佐登神社もお参りしてきたかったのですが、JR関西線・加佐登駅からの名古屋行きが、13時34分発でしたから、断念(加佐登神社に来たのが、13時過ぎでした。この時間帯、関西線名古屋行きは、1時間に1本)。表参道入り口から神社までは、階段を登って、450m。5分くらいですが、境内を見て回る時間はないと考え、断念。
Img_4653c  やむなく、加佐登駐在所前の交差点にやって来ました。あのだるまやさImg_4655c んの前です。県道をちょっと進み、向井酒店、サンケー電機など、昔もあった店を確認。このほか、病院での当直の夜など、出前をよくお願いした桂鮨もありましたっけ。
Img_4671c ここからは再び、加佐登商店街を通って、加佐登にもう一つあるお寺に。Img_4662c 高宮山光明院青蓮寺。開基・創建については不詳。もとは真言宗でしたが、中世、真宗高田派に転じました。大永2(1522)年、青蓮寺中興 宗順が本堂を建立。貞享3(1686)年、山号の印状を受けています。享保9(1724)年、第十世・潭道が本堂を再建。その後さらに、天保12(1841)年、第十三世・白道が本堂再建し、現在に至っています。この日は、報恩講のお勤めが行われていました。
Img_4692c そして、13時23分、勝手に変更したゴールである、JR関西線・加佐登駅Img_4695c に到着。スタートから10.4㎞。本来のゴールである、近鉄鈴鹿線・平田町駅までは、さらに3㎞あります。

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 加佐登駅、ご多分に漏れず、無人駅。自動の券売機もありません。同じImg_4706c ハイキングに参加していた女性から、「どこで切符を買うのでしょう?」と尋ねられました。明治25(1892)年2月に、関西鉄道の河原田~亀山間に高宮駅(たかみやえき)として開業。明治36(1903)年2月、加佐登駅に改称ています。平成24(2012)年10月から無人駅に。
Img_4708c 13時34分発の名古屋行き快速に乗車。亀山から来て、四日市までは各Img_4709c 駅停車。四日市から快速。桑名までは、¥500。桑名駅には、14時5分着。
Img_4712c この日のハイキングで、スタンプは25個をゲット。あみま倶楽部の踏破賞Img_4723c (シルバー会員)は、20個、40個が関門。今の会員資格が有効な今月中に40個を達成するのは不可能ですので、帰りに近鉄桑名駅に立ち寄って、踏破賞の賞品をもらってきました。駅長室に通していただき、銅賞のバッチと、近鉄の商品券¥1,000。これだけでも嬉しいものです。あみま倶楽部も、更新して、新しい会員証をもらってきました。次の1年、スタンプ40個ゲットを目標にやりましょう。
20181202stamp 庄野宿資料館で押してきたスタンプ。こういうスタンプ、子供だましのよう201812021 にも思えますが、実際に訪れて、スタンプがあると、押したくなります。毎度書きますが、桑名でもこういうものを準備してほしいところ。また、四日市や、庄野では地元の皆さん(各地区)でウォーキングや、案内のマップ、リーフレットをつくっています。桑名ではこれもありません。横並びが良いとは思いませんが、城巡り、街道歩きもブームですから、観光振興のためにも、桑名市でももっと積極的に対応して欲しいと思います。
 今回は、近鉄ハイキングの記録だけでなく、個人的なセンチメンタル・ジャーニーにもお付き合いいただき、いつも以上に恐縮しています。これに懲りず、今後ともよろしくお願い申し上げ、12月2日に参加した近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」もお陰様で無事「完」であります。

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2018年12月 7日 (金)

シメが地上に降りてきました

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 寒くなる、北風が強いという予報でいささかビビっていましたが、昼の間は、最高気温も16℃を超え、さほどではありませんでしたが、これから夜遅くになるにつれて、冷えてくるようです。夕方6時には約10℃。まさに判で押したように(我ながら笑えます)、8時20分から、ほぼいつものコースを散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と5.6㎞。
Img_5017c 今日のトピックスは、こちら。シメがようやく地面に降りてエサを啄んでいImg_4393c ました。九華公園の管理事務所の南辺り。昨日、ヤマガラと接近遭遇した辺り。この場所は、小型野鳥がよくいるところ。
Img_4347c 七里の渡し跡にて、イソシギ。昨日も三の丸水門でそれらしき姿を見かけまImg_4984c した。伊勢一の鳥居側から、川口水門の方の堤防に来たのを見ています。肉眼ではよく分からなかったのですが、石垣のくぼみにたまった水を飲んでいました。
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 蟠龍櫓近くでは、ハクセキレイが3羽ほど。今日は、あの伊勢湾台風のモニュメントでは遊んでくれませんでした。このほか、七里の渡し跡でヒドリガモのペア3組、柿安コミュニティパーク西の堀にキンクロハジロのメス3羽など。
Img_4364c 九華公園ではまずは、ホシゴイ2羽と、ゴイサギ1羽。風がけっこう吹いていImg_4370c て、ホシゴイの頭がモシャっていました。ゴイサギは、残念ながら枝かぶり。このあとも、写真が撮りにくいところにしかいてくれません。アオサギは、今日は来ていません。
Img_4380c カモは合計69羽。100羽越えもありましたが、ここ数日はこれくらいで安定しています。今日のような天候の日は、誰もエサをくれなImg_4429c ければ、カモたちもお休み体勢。ヒドリガモは2ペア、ホシハジロは、オス2羽、メス2羽、ハシビロガモはオス2羽、メス4羽、キンクロハジロといつも通りのメンバー。
Img_4424c ユリカモメは、朝日丸跡で散歩友達と話をしているときに、30羽以上が飛Img_4403c 来したのですが、すぐにいなくなり、そのあと見えたのは、この3羽のみ。ツグミは、奥平屋敷跡や、二の丸跡で2羽。割りと近くで行動しています。まだ地面には降りてきません。
 本日の野鳥リスト:
  • ヒヨドリ(諸戸氏庭園、三の丸公園、九華公園、貝塚公園)
  • ハシボソガラス(住吉入江、九華公園)
  • キンクロハジロ オス、メス(揖斐川、九華公園、柿安コミュニティパーク西の堀)
  • カンムリカイツブリ(揖斐川)
  • ヒドリガモ オス、メス(川口水門、九華公園)
  • スズメ(七里の渡し跡)
  • カワラバト(七里の渡し跡、九華公園)
  • ムクドリ(七里の渡し跡)
  • イソシギ(七里の渡し跡)
  • ハクセキレイ(三の丸水門、九華公園)
  • ユリカモメ(三の丸水門、九華公園)
  • ゴイサギ
  • ホシゴイ
  • ハシビロガモ オス、メス
  • キジバト(九華公園、貝塚公園)
  • カワラヒワ(九華公園、貝塚公園)
  • シメ
  • ツグミ
  • オオバン
  • ジョウビタキ オス(九華公園、貝塚公園)

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20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その3)……加佐登の町を経て、荒神山観音寺へ

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 その2では、庄野宿を歩いて、JR関西線・加佐登駅まで来ました。スタート20181202kintetsuhikinghiratacho3 からは4.3㎞ほど、時刻は11時25分。加佐登の町の中、歩いたルート(右の地図)が錯綜していますが、加佐登駅のすぐ北で左折。グッと大きく右折して浄安寺の前で左折し、北西へ向かっています。加佐登駐在所前から鈴鹿病院を覗いて、また駐在所前に戻り、さらに北西へ向かいました。
Img_4391c S理容院さん。加佐登に住んでいる間、お世話になりました。勤務先の患者Img_4392c さんの散髪をお願いしたこともありました。右は、理容院のすぐそばで営業していたクリーニング屋さん。ここもお世話になったところ。このクリーニング屋さんの前を通って、坂道を上ります。
Img_4401c けっこうな坂道を上りながら、上に書いたようにグッと大きく右折したところImg_4410c にあるのが、浄安寺。浄土宗のお寺。加佐登に住んでいたとき、この存在は知ってはいたものの、前を通るだけでした。
Img_4413c ここ浄安寺には、市指定文化財である「釈迦如来座像」があります。平安後Img_4414c 期の作で、高さ88.5cm。檜造りで、量感があり、平安初期の面影があるそうです。もとは、慈悲山正福寺(生福寺)に祀られていたものが、明治維新の時、廃寺になってここに遷されたといいます。
Img_4418c 加佐登商店街を歩くのですが、ほとんどの商店が閉まっています。このImg_4421c 日は土曜日なのですが、お休みというよりは、廃業してしまったところがほとんどという印象。左の写真、手前には手芸店があったはず。南条文具店も営業していないようです。右の写真の八百屋さん、小生が働いていた病院にも品物を納めていました。八百屋さんが土曜とはいえ、昼前に閉まっているというのは、廃業してしまったのかと思えます。なんだか寂しい限り。
Img_4419c  シャッター商店街といいたくなりますが、そうではありません(笑)。この呉Img_4425c 服屋さん、小生がいた頃は確かに営業していたと思います。しかし、それにしても、ほとんどの商店が閉まっているのには、やはり隔世の感。しかし、そういう中、昔はなかった食堂が1軒。あちこち検索した結果、「日の出食堂」というらしいことを見つけました。食べログには単に「食堂」として載っています。
Img_4428c もう一軒。こちらは、小生在職当時から続いている「だるまや」。改めて調べてビックリ、小生在職当時どころか、昭和30(1955)年創業だそうですから、小生と同年齢(笑)。小生がいた頃は、きわめて普通の大衆食堂でした。13年ほど働きましたが、その途中から鴨料理を始めた記憶があります。今や、鴨料理専門店だそうです。ちなみに、だるまやさんで鴨料理は食べたことがありません。
Img_4433c だるまやさんの前が、加佐登駐在所前の交差点。ここを南に入ったとこImg_4434c ろが、小生の最初の勤務先である国立病院機構鈴鹿病院(当時は、国立療養所鈴鹿病院)。昭和54年4月に就職し、平成4年5月まで勤務しました。昭和18(1943)年11月に亀山陸軍病院として創設されました。戦後、厚生省に移管され、昭和28(1953)年4月からは結核療養所に転換し、国立療養所鈴鹿病院となりました。その後、昭和39(1964)年10月には、進行性筋ジストロフィ-症児(者)病棟を、また、昭和44(1969)年5月には重症心身障がい児(者)の病棟を設けています。
Img_4436c 小生が奉職した当時は、まだ陸軍病院時代の建物もあり、まさに田舎の療養所という雰囲気でしたが、平成16(2004)年4月に国立病院機構になってからは、施設・設備も一新されました。数年前に、一度、依頼を受け、講演会にお邪魔したことがありますが、あまりの変身ぶりにかつて勤務したところとはいえ、緊張感を覚えました。
Img_4443c いささかの感慨にふけりつつ、近鉄ハイキングのコースに戻ります。鈴鹿病院前で5㎞を過ぎました。病院前のメイン道路は県道27号線ですが、そこから1本南の旧道を歩きます。ここは、10年近く通勤で歩いた道。この写真のあたりには、本屋さんもあったところ。
Img_4445c この後藤庄兵衛商店さんは、肥料屋さんだったはず。ネット検索しても情Img_4448c 報が出て来ませんので、もう営業していないのかもしれません。右の写真のあたりには、江藤酒店があったところ。ここから県道側に曲がって、県道を越えたところに住んでいたのです。引っ越したとき、亡くなったオヤジが「おぃ、ここでお酒が買えるな」などといっていた記憶があります。さほど飲むわけではなかったオヤジのことばとは思えず、記憶に残っています。
Img_4451c またもやコースを少し外れますが、かつて自分が住んでいたところを見てImg_4450c 来ました。E藤酒店があったところから、県道に出ました。「美容 小河」さんは、あの頃は「小河パーマ」といっていたと思います。左の写真では、奥の方が荒神山観音寺や、東名阪鈴鹿インターチェンジ方面。ここを渡ると、右の写真。この奥に、昭和54(1979)年4月から10年ほど住んでいたのです。
Img_4455c 写真に写っているクリーム色の建物の手前辺りに、4軒の長屋というか、アパートがあり、その西から2軒目に住んでいました。家賃は、ずっと¥17,000で変わらず。今風にいえば、2DK(風呂・トイレと、裏に物干し場あり)。更地になっていましたが、う~ん、気分的にはかえってサッパリした気がします。ちなみに林の向こうは、三重用水の加佐登調整池。これはまたあとで触れます。
Img_4454c_2  かつて住んだところを確認して、県道に戻りました。大家さんの西口屋さん。奉職当時は、旧道の方にありました。家賃は、ずっと現金払いでしたので、毎月持参していました。これにて、センチメンタルジャーニーのメイン・イベントはほぼ終了。ハイキングコースに戻り、荒神山観音寺を目指します。このあたりで6㎞手前。
Img_4463c  旧道を500m弱歩いて、花植木センター入り口交差点へ。歩いていると、クルマの爆音が聞こえて来ました。昔からそうでしたが、天候、風向きによっては鈴鹿サーキットを走るクルマのエンジン音、排気音が聞こえたのです。この日はレースはなかったようですから、何かのイベントだったかもしれません。この先の信号交差点を右へ入って行きます。
Img_4470c 信号交差点(花植木センター入り口)の先の三叉路脇にImg_4476c 「高神山観音寺」の石標があります。この「高神山観音寺」が正式な名称。石標は大正14(1925)年3月の建之。ここまで来れば、荒神山観音寺まではあと500m。市立加佐登小学校の前を通ってさらに進みます。
Img_4479c 加佐登小学校のすぐ北に常夜灯が見えましたので、見て来ました。あまりはっきり覚えていないのですが、この先に高塚神社がありました。かなり階段を登っていかなければならないようでしたので、パス。ネットで検索しても情報は出て来ませんでした。
Img_4494c スタートから7㎞あまり、12時5分になってようやく荒神山観音寺に到着。Img_4498c 真言宗御室仁和寺派のお寺。9世紀の初期、嵯峨天皇の時代、弘仁3(812)年に、弘法大師日本武尊を御神霊を仏像としてまつり、神事山(こうじやま)と称したのが始まりです。その後、寛治元(1087)年に大和の国の法陵律師という聖僧が、神事山の観音大士のお告げによってこの地を訪ね、檜の大樹の下に十一面観世音菩薩がいらっしゃる姿を見い出して、御堂を建立安置したといいます。創建時は、紅葉山高宮寺と呼ばれ、加佐登神社周辺にあったとされる慈悲山寺(廃寺)の末寺であったといいます。
Img_4504c 左は、本堂の写真。本堂には、十一面観世音菩薩(秘仏)と日天、月天、Img_4525c 地天の銅仏が安置してあります。中世に衰退したのですが、寛永10(1633)年、伊勢神宮参拝の途上で失明した奥州出羽の行者・荒沢順海が、当寺に祈願したところ開眼全癒したことからここに留まり、異母姉である春日局(徳川家光の乳母)の支援を得て再興しています。春日局は上洛した際に参拝し(正保4(1647)年)、鐘楼の梵鐘と仏像5体を寄進しています。 慈悲山寺が衰えたため、元禄4(1691)年には高野山の末寺となり、高野山の一字をうけて高神山へ改称しました。右の写真には、春日局が寄進したという梵鐘が写っています。ちなみに、三宝荒神は、最も不浄を忌み、火の清浄を愛するところから竈(かまど)の神様として有名で、暴悪を治罰する神徳から正義が祈られ、勝運が願望されているといいます。
Img_4512c  本堂は、寛保3(1793)年に僧・宥信が建立。奉納された多数の絵馬や、千社札が並んでいます。Img_4513c 絵馬の1つには、「文政十三庚寅正月」とありました(文政13年は1829年、天保に改元された年)。
Img_4531c 境内はかなり広く、本堂の背後に進んでいくと、観音堂があります。Img_4537c 石碑が建っていますように、荒神山観音寺は、伊勢西国三十三ヵ所の第24番札所。ちなみに、伊勢七福神の1つでもあります。
Img_4535c
 境内は、ハイキングのタイトルにあったように(鈴鹿の隠れた紅葉の名所Img_4541c 「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて)、紅葉がきれいでした。これはうかつにも知りませんでした。観音堂のさらに奥に奥之院があります。奥之院は、安永4(1775)年に僧・光瑞が建立し、ここには黒観音と三宝荒神が安置されています。
Img_4543c 奥之院には、両側に大きな草鞋らしきものが掲げられていました。由来Img_4546c は調べたものの、不明。昔からあったような気がします。春の大祭(春季会式)が4月7日・8日に行われますが、7日正午からは、この奥之院の前で、本尊十一観世音菩薩の大護摩と火渡りが催されます。
Img_4521c さて、この荒神山観音寺の裏山では、慶応2(1866)年に神戸長吉(かんべのながきち)と穴太徳(あのうとく、穴太の徳次郎;ちなみに、穴太は、桑名の隣、東員町の地名)が、荒神山の賭場の縄張り争いから大喧嘩をしました。「神戸(かんべ)」は、鈴鹿の神戸。どちらも神戸屋祐蔵の子分。4月7日・8日の観音寺の縁日には、寺の背後の道筋に多くの賭場が立ち、ここを縄張りとする親分は莫大な収入を得ていました。ここはもともと神戸長吉の縄張りだったものが桑名在の穴太屋徳次郎(通称穴太徳)の手に渡ったために両者の争いとなったという次第。
Img_4509c 寺の裏山で両者あわせて200人前後の身内を投入、入り乱れての死闘をつくしたといいます。長吉方には、三州吉良仁吉清水次郎長一家が加勢し、穴太徳には黒駒勝蔵ら東海の大親分たちがついたものの、穴太徳勢は寄せ集めであったため、用心棒が討ち取られると総崩れとなり、長吉の方が勝ちを収めたといいます(このあたりの状況は、史実と、浪曲のストーリーとが入り交じって伝わっているようです)。しかしながら、応援に来ていた吉良仁吉は銃弾が当たり、亡くなってしまいます(享年28)。本堂には、吉良仁吉のものとされる三度笠と合羽、仁吉を倒したという火縄銃が展示されています。
Img_4507c この荒神山の喧嘩は、「血煙荒神山」として講談や浪曲などで取り上げられたり、映画も作られ、有名になりました。とくに、二代目広沢虎造の浪曲は人気を博しました。火縄銃などの隣には、「次郎長血笑記 殴り込み荒神山」という映画のポスターが掲げられています。昭和35(1960)年の東映映画。こちらにそのストーリーがあります。
Img_4579c 荒神山観音寺の境内には、この大喧嘩の時の流れ弾のImg_4583c あとがあると伝えられています。それは、鐘楼の柱の根元の穴。
Img_4547c 昭和26(1951)年3月、広沢虎造により、吉良仁吉を追悼する碑(吉良仁吉碑)が境内に建てられています。
Img_4502c このほか、荒神山観音寺の境内にあったもの。まず、入り口を入ってすぐImg_4540c のところには、春日局の歌碑。「さと遠き かうじが山の 紅葉に 観音大悲 ひかりとどまる」という和歌が刻まれています。碑陰には、平成元(1989)年4月に地元、高塚町と都賀町の方が建てたとありました。観音堂から奥之院に向かう途中、西側には道標(?)。「右 下大久保  左 深溝」とあります。両村とも現在は鈴鹿市ですが、江戸時代は亀山藩の領内でした。ただ、江戸時代中頃は、このあたりは原野がひろがり、荒れ地を開墾しては土地を増やしていったところで、神戸藩や亀山藩などの領地の境界が判然とせず,管轄が入り組んで複雑だったようで、入会地をめぐって村と村の争論も頻発したそうです。
Img_4566c 本堂の東には、三吉稲荷大明神が祀られていますが、由緒などは説明Img_4568c がなく、不明。「三吉」も、人名とも、地名とも思えない気がします。京都の太秦などに三吉稲荷という神社があるようですが(たとえばこちら)、関連があるのかどうか分かりません。
Img_4591c
 境内を一通り見て回ってきましたし、時刻も時刻でしたので、荒神山観音寺で弁当。12時半頃。今日も駅ナカファミマでゲットしてきた幕の内弁当、¥398。おにぎり弁当のようなものがなく、やむなくこちらをチョイス。本堂脇にベンチがあり、そこでいただいてきました。他の参加者の方々も10名以上、お昼を食べておられました。
Img_4596c 余談(全編余談のようなものですが)。たしか「荒神山会館」といったと思いますが、境内には、集会所のような施設があります。鈴鹿病院に就職したとき(その後も、しばらく、歓送迎会、忘年会などでも利用)、ここで、加佐登商店街の仕出し屋さんから仕出し弁当をとってもらって歓迎会をしてもらったような記憶があります。
Img_4593c お昼も食べて、12時40分に再スタート。長くなりましたので、その3はここまで。ここからは、勝手にハイキングのコースを外れ、鈴鹿フラワーパーク、加佐登調整池から加佐登神社方面を回って、加佐登駐在所前の交差点で元のコースに戻ります。

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2018年12月 6日 (木)

ユリカモメの飛翔シーンと、ヤマガラに接近写真……寒くなって冬鳥は増えるか?

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 昨日とは一転して、肌寒い日になりました。最高気温も12.1℃と7℃以上も低くなりましたし、曇天でソーラーパワーも得られず。ダウンジャケットを着て散歩。雨が降ってくる前にということで、8時15分スタート、いつも通り、住吉神社、九華公園、貝塚公園、京町、寺町と5.7㎞。九華公園の中を、鳥を求めてウロウロしていました(笑)。
Img_4931c 九華公園には、昨日からユリカモメが30羽以上来ていますので、今日は、ちょっとだけ遊んでみました。パンくずを持参して、放り投げて写真を撮ってみたという次第。堀に架かる橋からパンくずを投げ、超望遠コンデジでテキトーに連写した中から選んだのがこちら。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式の応用です。今日は、ユリカモメは37羽。
Img_4265c 仲良くなりたいと思っているヤマガラさん。管理事務所南あたりですぐ目のImg_4269c 前(5m以内)に出て来ました。デジイチの250mmズームで撮って、少しだけトリミングした写真です。「手乗りヤマガラ」にしつけたいと思うのですが、うまく行くでしょうか?
Img_4185c さて、鳥は今日も少なめ。左は、七里の渡し跡で見たイソヒヨドリのオス。曇Img_4194c 天で色が出ません。蟠龍櫓近くでは、イソシギらしき鳥も見たものの、写真には撮れず。ハクセキレイは、今日も、伊勢湾台風のモニュメントで遊んでいました。これも何とか傑作をものにしたいと思っています。
Img_4213c 九華公園、鎮国守国神社の社務所裏には、ホシゴイが2羽。到着したときには、アオサギの姿はなし。ホシゴイ、今日は飛び回ったりはせず、ひっそりとしていました。こんな天候ですと、ホシゴイもテンションが上がらないのかもしれません。
Img_4913c カモたちは、やや多めで71羽。九華橋辺り、吉之丸堀の中央から東などImg_4217c にたくさん集まっています。メンバーはほぼ固定(微笑)。ホシハジロのオス2羽、メス3羽、ヒドリガモは今日は、1ペア、ハシビロガモはオス2羽、メス5羽とキンクロハジロ。橋の上などで数を数えようとすると、エサをもらえると思って集まってきます。
Img_4228c ツグミは、奥平屋敷跡を中心に3~4羽います。2羽同時に写った写真もImg_4331c あったのですが、あいにくピンぼけ。鳴き声があちこちから聞こえてきます。しかし、まだ、地上には降りてきません。シメも鳴いているのですが、やはりまだ樹上から降りてきません。シメが煎るのは、奥平屋敷跡や本丸跡など、昨シーズンよく見かけたところ。
Img_4304c 九華公園の中を回っていると、上空にアオサギが2羽飛来。1羽はいったImg_4956c ん本丸跡の松の木に降りたあと、鎮国守国神社の社務所裏の定位置に移動。知人と「ここ2~3日、アオサギはサボっている」と話したばかり。聞こえたのかも(微笑)。
Img_4136c
 午後からは雨になりましたが、夜には上がるという予報。しかし、明日からは真冬の寒さがやって来るとか。寒くなるのは叶いませんが、これで冬鳥たちが一気に出てくるのではないかと期待しています。
Img_4973c ところで、今朝の中日新聞に市内の伝馬公園で行われている遺跡発掘調査で、江戸時代、桑名城下に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設された状態で見つかったというニュースが載っていました。4代藩主・松平定行公の時代です。12/8(土)2時から現地説明会だそうです。当日は、近鉄ハイキング(伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ)なのですが、このハイキングは約5㎞。両方行けるかも。ちなみに、翌日には、酒蔵見てある記の初回なのですが(酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて)、これは行かなくっちゃ(微笑)。前日の
 野鳥リスト:
  • ヒヨドリ(桑名七里の渡し公園、三の丸公園、九華公園)
  • キンクロハジロ メス(住吉入江、七里の渡し跡、柿安コミュニティパーク西の堀)
  • ハクセキレイ(住吉神社、柿安コミュニティパーク、
  • コサギ(揖斐川上空通過)
  • カワラバト(揖斐川堤防、九華公園)
  • ムクドリ(揖斐川堤防、九華公園
  • イソヒヨドリ オス(七里の渡し跡)
  • キジバト(九華公園、貝塚公園)
  • ホシゴイ
  • ハシビロガモ オス、メス
  • ヒドリガモ オス、メス
  • ハシビロガモ オス、メス
  • キンクロハジロ オス、メス
  • カワラヒワ
  • ユリカモメ
  • ツグミ
  • オオバン
  • ハシボソガラス
  • シメ
  • ビンズイ?
  • ヤマガラ
  • シジュウカラ
  • メジロ
  • アオサギ

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20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その2)……庄野宿からJR関西線加佐登駅へ

20181202kintetsuhikinghiratacho2  12月2日の近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」のその2です。スタートした近鉄鈴鹿線・平田町駅から2.3㎞ほどで東海道五十三次の45番目の宿場である庄野宿にやって来ました。ハイキングの設定されたコースでは、庄野集会所のところで右折することになっていますが、せっかく来ましたので、宿場内を一通り歩くことにしました。庄野集会所のところで左折し、宿場の南端まで行ってみます。

Img_4291c 庄野宿の京方向の入り口にある石標。「東海道 庄野宿」と刻まれています。昔からあるものではなく、旧庄野小学校の門柱を利用したもの。ここでスタートから2.6㎞。ここから南に向かうと、汲川原町を経て亀山宿につながります。汲川原町の西端には、女性たちが死罪覚悟で築いたという伝説が語り継がれる女人(にょにん)堤防があります。汲川原は、鈴鹿川と安楽川の合流するあたりで、しばしば川の氾濫が起き人命が失われました。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たものの許可されませんでした。そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったのですが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによって工事が行われたといいます。6年後、堤防は完成したが、首謀者の菊らは、あわや処刑される寸前、家老の松野清邦の嘆願により助命された上に、金一封が贈られ、ねぎらわれたという話が伝わっています。現場の堤防脇には「女人堤防碑」(昭和33(1958)年建立)がありいいいいます。女人堤防も見たかったのですが、今回はパス。ここから庄野宿を上ります。
Img_4286c 庄野宿の石標から数分で川俣神社があります。鈴鹿川の流域には、同じImg_4294c 名称の神社が6社あるといわれ、庄野にはそのうち3社があります。いずれも川の合流・分流点ですから、氾濫に悩まされた住民たちが治水を祈って建立したと思われます。
Img_4299c
 詳しい由緒は、不詳ですが、江戸時代には貴船神社と称し、元禄16(1703)年に川東の門田より川西古屋敷(現在の字田中)に移つたといいます。明治40(1907)年11月、庄野村の川俣神社他7社、汲川原村の3社を庄野村大国神社へ合祀し、村社川俣神社と単称しました。
Img_4300c 御祭神は、大国主神、高お神、大彦命、健速須佐之男命、宇迦之御魂神、品陀和気命、菅原道真、玉依毘売命、市寸島姫命、大山祇神、埴山毘売神、大直毘神、建御名方神、息長帶日売命。
Img_4302c この川俣神社で有名なのは、「川俣神社のスダジイ(県天然記念物)」でImg_4305c す。スダジイは暖地に自生するブナ科の常緑高木です。ここでは、御神木として大切にされています。樹齢は約300年とも、5~600年ともいわれ、樹高約15m、幹周り約5m以上の巨木です。立ち上がって間もなく、地上約2mほどの高さで多数の大枝に分かれており、大きく盛り上がった壮大な樹冠が印象的です。相当の老木で、樹皮に縦の裂け目があり、一部空洞も見られます。
Img_4288c 川俣神社のすぐ南にあったお宅。いかにも旧街道沿いに建つ家という雰Img_4293c 囲気でした。今もお住まいのようでしたし、「民生・児童委員」という表示もありました。右の写真は、京方向の石標あたりからみた庄野宿の様子。
Img_4311c 川俣神社から100mほどのところ、東海道からは北へ少し入ったところにImg_4313c 常楽寺。真宗仏光寺派のお寺。ただし、山門には柵がしてあり、入れないようになっていました。ネットを検索しても情報が出て来ません。活動していないのかもしれません。
Img_4279c 常楽寺から100mあまり、伊藤理容の建物脇に「郷会所跡」の表示板があImg_4316c ります。郷会所は、助郷の割り当てを受けている角村の代表者(庄屋や、肝煎)が集会するところ。助郷は、江戸時代、幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助、補充させるため、宿場周辺の農村に課した夫役。宿場に人馬 (御定人馬) を常備しました。江戸時代後期には、助郷人馬の割り当てが多くなり、唯でさえ豊かではなかった庄野宿はその対応に苦労したようです。
Img_4278c_2 左の写真は、最初に庄野宿に入ってきたときのもの。男性お二人が立っImg_4316c_2 ているところの奥の建物脇に「高札場跡」の説明板。高札場には、法度、掟書などが書かれた「高札」が掲示されました。庄屋宅や、人通りの多い辻など、村や宿場毎に一ヶ所設けられました。庄野は、戦災に遭わなかったこともあって、人馬賃銭の規定、人倫の症例その他、禁制など実物5枚が保存、展示されています。
Img_4317c 上左の写真とほぼ同じところですが、向かって右の白い、2階建ての建物Img_4324c が庄野集会所。集会所の辺りに本陣があったといいます。本陣は沢田家で、明治5(1871)年まで続きました。間口16間、建坪198坪あまり、室数28の大邸宅であったそうです。脇本陣は、このすぐ南にありました。天保14(1843)年の調査で、旅籠は15軒ほどあったといいます。
Img_4319c 庄野集会所の前には、本陣跡を示す石標の他に、津まImg_4322c での距離を示す「道路元標」もあります。道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物で、旧道路法(大正8(1919)年)により各市町村に1個設置することにされました。この道路元標には、「距津市元標九里拾九町」と刻まれていました。また、「石薬師へ壱里壱丁 亀山へ弐里参丁 庄野村」ともあります。この石碑は新しいものという印象で、再建されたものかと思います。
 この先、もう少し行くと、「問屋場跡」の標識があったはずなのですが、見逃してしまいました(こちらにあります)。問屋場(といやば、とんやば)は御伝馬所ともいい、街道宿場にとって重要な役所でした。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)と馬差各4、5名が半数ずつ交替で詰めていました。主な任務は、公用書状の継立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当、賃銭、会計などでした。
Img_4332c スタートから3.4㎞、10時55分に庄野宿資料館に到着。ここは、江戸時代に油問屋を営んでいた旧小林家の建物(市指定有形文化財)。庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、日本画壇で活躍された故小林彦三郎氏の絵画や文書の他、地域に残る民具、農具、日用品などが展示されています。庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、平成10(1998)年に開館しました。
Img_4334c 高札場に掲げられていた高札も5枚、展示されていました。内部は写真撮影ができませんので、高札の写真はありません。こちらで高札の写真をご覧になれます(鈴鹿市の広報のpdf版)。高札5枚は、この資料館のお宝といえます。大きなものは、横幅258cmもあります。文字が浮き上がっているのですが、それは長年の風雨で、板の表面は収縮したものの、炭に含まれる膠が残っているためだそうです。
 写真は撮れませんでしたが、かつて庄野宿名物として知られた「焼米俵」も展示されていました。鼓の形に編まれたわらの中に、水に浸してから煎った後に平たくした米が入っています(リンク先に写真があります)。保存食、携行食として重宝されたといいます。江戸時代の朱子学の大家・林羅山も、買い求めた話を紀行文に残しているそうです(丙辰紀行、元和2(1616)年)。明治以降消滅したものを庄野宿二若会の方々が復元に取り組んでいます。
Img_4337c この庄野宿資料館(旧小林家)のお庭。蔵もあり、かなり広い庭でした。手入れも良くされていました。この庄野宿資料館、スタッフの女性が親切で、丁寧に説明してくださいました。地元の方ということで、宿場や、その歴史文化を大切に思っていらっしゃるのがよく分かります。
Img_4350c 資料館の前には、広重の東海道五十三次の浮世絵「庄野の白雨」が掲げられています。広重の東海道五十三次の中でも、もっとも有名な一枚かも知れません。白雨とは夕立のこと。この「庄野の白雨」は、庄野宿内を描いたものではなく、現在のJR関西線・加佐登駅近くのあたりの情景を描いたという説があるそうです(冒頭のマップに示してあります)。
Img_4352c 資料館を出て200m足らずのところに筧口山(けんこうざん)善照寺があります。真宗高田派。創建は、長禄年間(1457年頃)と伝わっています。平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基し、初めは天台宗でしたが、高田派第十世・真慧上人の化導によって真宗高田派に改宗し、今日に至っています。
Img_4354c 本堂は、寛政年間(1795年頃)に建立されました。嘉永7(1854)年6月5Img_4358c 日、安政の大地震の始まりといわれる、伊賀上野地震によって、庫裏が倒壊し、記録や元禄以前の過去帳が不明となったそうです。旧のお盆には、庄野大念仏踊りがこの寺を中心に行われます。
Img_4366c 善照寺から200mほどで、庄野町西交差点に来ます。ここが、庄野宿の江Img_4369c 戸方向の入り口。ここにも石標があり、また、宿場の案内、周辺の東海道五十三次の地図があります。昔、近くに住み、働いていたとはいえ、庄野宿をしっかりと診たことはありませんでした。東海道五十三次の宿場であることはもちろん知っていましたが、その頃は若かったこともあって、歴史にさほど興味もありませんでした。
Img_4374c JR関西線・加佐登駅の方に向かいます。道の両側には、日本コンクリーImg_4377c ト工業のグループ会社である中日本コンクリート鈴鹿工場があります。広い敷地にコンクリート製の電柱がたくさん置いてあります。昭和31(1956)年8月に工場ができています。
Img_4383c JR関西線の踏切を渡って、加佐登(かさど)の町へ入ります。ここ加佐登は、昭和Img_4388c 54(1979)年4月に最初の勤務先に就職すると同時に住み始めた、懐かしいところ。現在、名古屋~亀山間は電化されましたが(昭和57(1982)から)、就職当時は非電化区間で、単線がほとんどであったため、名古屋から加佐登までは1時間半くらいかかった記憶があり、「とんでもない田舎に就職してしまった」と思ったものでした(笑)。
 その2も長くなりましたので、ここまで。その3では、加佐登の町を歩き、懐かしいところを見てから、荒神山観音寺へと向かいます。

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2018年12月 5日 (水)

20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その1)……平田町駅から庄野宿へ

 11月10日の養老へのハイキング記事を怒濤の勢いで書き終えました(笑)。続いては、12月2日の近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」です。このハイキングは、近鉄鈴鹿線・平田町駅から、東海道五十三次・庄野宿と、荒神山観音寺を訪ねるもの。ぜひとも参加しようと思っていたのですが、その理由は、大学院を修了して、最初に就職した勤務先&住まいのあたりを通るからでした。大学院修士課程を修了して就職したのは、昭和54(1979)年4月。修了するまではそれなりに勉学に励んでいましたので、就職してからが、青春時代という感じでした(微笑)。もう一つは、東海道五十三次の庄野宿を訪ねるというのも魅力。荒神山観音寺は、勤務先の近くにあり、ここの会館でし出し料理で歓迎会をしてもらったような記憶がありますし、患者さんたちを連れて散歩にもよくいったところ。ということで、今回のハイキングは、センチメンタルジャーニーなのです。

Img_4205c この日のスタート&ゴールは、近鉄鈴鹿線・平田町駅。鈴鹿線へは、名古屋線Img_4207c の伊勢若松駅で乗り換えます。いつものように、桑名駅を9時2分に出る五十鈴川行き急行に乗車。乗り換えの伊勢若松には9時25分着。ここで、失敗。よく調べて行かなかったのですが、平田町行きは9時50分(笑)。桑名を次に出る松阪行き急行(9時22分発)でも十分間に合いました。平田町には、10時1分着。¥560。
Img_4213c 平田町駅は、鈴鹿線の終点。伊勢若松駅を出て、柳、鈴鹿市、三日市のImg_4212c 次。この駅に降りたのは、I院長の還暦パーティー以来。10数年ぶりに降り立った印象は、昔とあまり変わっていないというものでした。
Img_4218c 左の写真が、この日のコースマップ。平田町駅を出て、庄野宿資料館20181202kintetsuhikinghiratacho 荒神山観音寺に行って、往路のコースをそのまま戻り、たいやきわらしべ鈴鹿店を経て、平田町駅に戻るという、約11㎞。鈴鹿には昭和54年から11年ほど住み、働いていましたので、マップを一目見れば、後は目をつぶっていても歩けるくらい(笑)。また、コースを見て、ボンヤリと考えていたことを実行することに決めました。同じ道を往復するのはつまらないということです。そして、実際に歩いたのは、右の画像の通り。荒神山観音寺までは、コースマップ通りに行ったのですが、帰りは、鈴鹿フラワーパーク、加佐登神社前を経て、ゴールは勝手にJR加佐登駅に変更(笑)。個人的には、たいやきはさほど魅力はありませんし。実際に歩いた距離は、10.4㎞。昔懐かしい場所を見て回ったこともあって、やや長目。桑名駅までの往復は、今日は2.4㎞。あわせて12.8㎞。
Img_4222c こちらがスタートの平田町駅。外観は昔とあまり変わりません。駅前にはロータリーがあり、タクシー乗り場や、バス停があります。マップを受け取って、スタートしたのは10時8分。平田町駅辺りは、繁華街の一つ。昔は、近くにハンター、アイリスといった大型ショッピングセンターが2つありました。ハンターはまだあるようですが、アイリスは閉店。
Img_4228c 平田町駅前から西へ向かいます。旭化成の工場や、イオン鈴鹿の前を通って、鈴鹿川に架かる汲川原橋に向かう道(写真奥がその方角)。クルマでよく走っていたところです。懐かしいけれど、雰囲気はかなり変わりました。
Img_4237c この通りを少しいったところ、南側に旭化成鈴鹿工場があります。ここはImg_4231c あの有名なサランラップをつくっているところ。この敷地には桜並木があり、桜の時期に一般公開されます。桜のトンネルをはじめ、グランドの周囲では300本の桜があり、見応えがあるのです。
Img_4234c 旭化成の工場から道路を挟んだ向かいには、焼き肉のみさき屋さん。鈴Img_4235c 鹿にいたとき、忘年会などの宴会でたびたびお邪魔したところ。昔から大きな店でしたが、今は何と360席もあるそうです。「ぼつ焼」が名物なのは変わりありません。松阪豚のバラ肉の一部でハラミの部分。いけません、書いているだけでよだれが垂れそうです(笑)。
Img_4240c 平田二丁目南交差点で右折。北西に向かいます。このあたりも昔の縄張り。この大関屋という焼き肉屋さんにもよく来ました。念のために申し添えますが、遊んだり、酒を飲んだり、食べたりしてばかりいたのではありません。よく働き、よく遊んだということです。
Img_4241c 大関屋さんの先にも懐かしいところがあります。この長屋になった店舗、Img_4242c 昼ご飯などを食べによく来たところ。とくに、「天ぷら ひご」と、「中華料理 紅南(こうなん)」の2店には、まさに足繁く通いました。働いていた病院からクルマで10分ほどでしたから、昼休みにも来られたのです。残念ながら、両店とももうやっていないようでした。あれから30年以上経つのですから、仕方ありません。この近くのお寿司屋さん(寿司幸さん)にもよく通いました。
Img_4248c 庄野一丁目東の交差点で右折、北へ進みます(このあたりで1㎞)。鈴鹿高校東交差点に出Img_4253c ます。この角に、今日の帰り道に立ち寄ることになっている「たいやきわらしべ鈴鹿店」。この鯛焼き屋さんのところを左折すると、鈴鹿中等教育学校・鈴鹿高校の前を通って、鈴鹿川、庄野橋へ。昔は、ここに鈴鹿短期大学がありましたが、今は、鈴鹿大学短期大学部となり、市内郡山町にあります。このあたりにも行きつけの喫茶店があったのですが、マンションや住宅地になっています。
Img_4254c 鈴鹿中等教育学校・鈴鹿高校の前を通り過ぎて、坂道を上り、鈴鹿川、

Img_4258c

庄野橋に向かいます。鈴鹿川は、鈴鹿山脈の高畑山(三重・滋賀県境)から伊勢湾に注いでいます。川はほとんどで東海道(国道1号)に並行しています(長さ38㎞)。鈴鹿にいた頃、職場も住まいも加佐登というところにありました。平田町など繁華街へ出てくるときには、必ず渡ったのがこの庄野橋でした。
Img_4261c 庄野橋の下流側には、広い河川敷を利用して、運動広場や野球場があImg_4268c りました。広々として気持ちよいところ。庄野橋を渡りきったところに横断歩道橋が有り、これで国道1号線を越え、庄野の町へ入って行きます。
Img_4272c 横断歩道橋から北を見た写真。奥が四日市方面。1号線から庄野橋に入Img_4277c る道は、ここで大きく曲がっているのです。橋を渡りきって2㎞。右の写真で正面、突き当たりが、旧・東海道の庄野宿になります。
Img_4278c いよいよ庄野宿に入ります。2.3㎞ほど来ました。時刻は、10時35分頃。Shounomap 写真に写っている辺りは、庄野宿の中心部。というのも、向かって右の建物(庄野集会所)の回りには、本陣、脇本陣、高札場、郷会所、問屋場などがあったところなのです。右の画像は、このあと訪ねた庄野宿資料館でいただいた資料に載っていたもの。庄野宿は、東海道五十三次の45番目の宿です。現在も格子造りの家が残っていますし、ややカーブした狭い道が街道であったことを伺わせます。全長は約870m。 宿の開設は東海道の中では、もっとも遅い寛永元(1624)年でした。江戸から伊勢に参る旅人は、日永の追分(四日市市)から参宮道(伊勢道)に入りますし、上方からの参宮客は、関宿から伊勢別街道を通りますので、ここを通る旅人は必ずしも多くありませんでした。東海道を通る旅人も、宿を求めるのは、七里の渡しを控えた桑名宿や、鈴鹿峠の下にある関宿でした。そのため、庄野宿は、人足、伝馬とも半減されており、残念ながら、疲弊した宿場といわざるを得ません。しかし、このあたりは、戦災に遭っていませんので、昔からの資料がたくさん残っているところです。
20181202kintetsuhikinghiratacho1 平田町駅から、庄野宿に至るまで、実際に歩いたルートです。立ち寄るところもなく、ひたすら歩いてきました。その1は、ここまでとし、庄野宿で訪ねたところからは、その2で触れることにします。

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ユリカモメは今シーズン最多の37羽……作業所で多度みかんをお買い上げ

Img_4896c

 12月に入ったのに、今日は最高気温19.5℃。なんだか妙な感じです。8時半過ぎからいつも通りの散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町と5.5㎞。冒頭の写真は、散歩から帰ったときの多度山の方の様子。
Img_4120c 今日のトピックスは、九華公園のユリカモメ。今シーズン最多の37羽。吉之丸堀の西側エリアに浮いていました。しかし、奥平屋敷跡を回って、二の丸跡へ来る頃には、姿を消してしまっていました。エサをくれる人が居なかったからという気がします。現金なユリカモメです(笑)。
Img_4092c さて、話を順番に。七里の渡し跡で、ヒドリガモ2ペアとコガモのオス。パッと見で全部ヒドリガモと思い込んでしまいました。よく見ないといけません。川口水門の先にも、ヒドリガモのメスがもう1羽いました。ヒドリガモはたいていペアでいますから、オスが見えないところにいたかもしれません。
Img_4109c 九華公園北門を入るとすぐに、鎮国守国神社の社務所裏に出ます。今日Img_4095c は、ホシゴイが元気(微笑)。2羽が飛び出して、辺りを一周して戻ったりなどしていました。右もホシゴイ。普段はこんな風に立っていませんから、違う鳥かと思ったくらい。アオサギさんだけでなく、ゴイサギやホシゴイも役者かもしれません。
Img_4879c こちらが普段のホシゴイの様子。このように、いわば背中を丸めているのです。右上のホシゴイの立ち姿と比べてみてください。
Img_4115c カモたちは、今日も64羽。この頃は、吉之丸堀西側エリアにあるここにたImg_4130c くさん集まっています。これは、昔、アヒルなどがいたときの小屋。カメのコウラ干しスロープが、向こう側にあったのですが、9月の台風で破損。メンバーもほぼ固定。ホシハジロのオス2羽、メス3羽、ヒドリガモ2ペア、ハシビロガモのオス2羽、メス4羽。右は、ハシビロガモのオス。まだエクリプスから抜けきっていません。
Img_4134c 1羽残ったカルガモも元気で、他のカモたちに混じって行動しています。他には、オオバンがたいてい2羽、常駐するようになっています。
Img_4139c ヒヨドリ、ドバト、ムクドリなどはいつも通りいるのですが、今日は他の小型野鳥の姿が見られません。いたのは、メジロとシジュウカラくらい。鳴き声もほとんど聞かれません。
Img_4890c 貝塚公園も同様。ヒヨドリとカワラヒワが少しいたほかは、モズが一瞬姿を見せただけ。金曜くらいから寒くなるという予報ですが、やはり暖かいせいで冬鳥が少ないのでしょうか。寒いのは好ましくはありませんが、冬鳥をたくさんみたいですねぇ。
Img_4885c 余談。普段こういう無人販売所で買い物をすることはありませんが、家内Img_4886c に「作業所のところの無人販売所で多度みかんを売っている」と話したところ、珍しく「買ってきて」ということで、買って見ました。9個入り、約1㎏で¥300。無農薬、ワックス不使用です。ホドホドに甘く、みかんらしい味。酸味はほとんどありません。美味しいみかんです。

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